新選組局長・近藤勇が京都を目指した本当の理由
「新選組」の真実③
■四代目「宗家」近藤勇の野望
近藤勇が多摩にいたころ、所属していた幕府直属の同心集団「千人同心」は、現在の神奈川県や埼玉県にも分布していたが、いちばん多く存在したのは八王子より西の多摩地方である。当然、天然理心流の門人も西多摩に多かった。
だが、三代目を名乗った周助(勇の養父)は、八王子から東の多摩地方で門弟を取り立てていた。現在の日野市出身の土方歳三(ひじかた としぞう)や井上源三郎(いのうえげんざぶろう)、上石原(かみいしはら)村(調布市)の宮川家出身である、後の近藤勇もそうである。
勇が近藤家に養子に入った嘉永2年、勇は府中市にある六所明神社(現 大国魂神社)で、大規模な野試合を行っている。
だが、この野試合には周助系以外の師範、つまりは八王子以西の多摩地方に住む千人同心の師範たちは参加しなかった。これは当然、彼らが勇の四代目宗家就任を認めないという意思表示である。要するに勇は、近藤家が代々弟子の供給基盤としてきた千人同心という枠を喪失した状態で、宗家を継がなければいけなかったのである。
文久3年(1863)11月29日、京に上った勇は、故郷の門弟たちに長い手紙(勇の手紙はたいてい長いが)を書いている。その末尾近くで勇は、次のような一文を記した。
「拙子(自分をへりくだった言い方) 義も白刃凌キ功成遂名候上者必々其家帰り撃剣職相勤度」
<大意>
自分は真剣を潜り抜けて、功績をとげて名をあげた上は、必ず必ず故郷の家に帰って剣術の師範をやりたい
勇の京都での行動は、勇の政見に基づいたものだが、その個人的動機は、意外に可憐なのである。故郷で誰もが一流と認める剣術の師範になるためには、江戸幕府が京都で行うであろう攘夷戦に参加して武名を挙げるにかぎる。そうすれば、名声を地元で確立し、場合によっては、上位の身分に成り上がることができるかもしれない。
この点が、西郷隆盛や高杉晋作と、近藤勇が決定的に違う点である。西郷や高杉は、薩摩藩や長州藩の正式な武士であり、彼らの政治活動は、基本的には藩論に基づいて、藩組織の下で行われるものであった。
しかし、勇にはそんなものはない。勇が政治に参加した個人的な理由は、養家である近藤家の発展のためである。これは勇の庶民的性格を感じさせるところだが、別な視点に立てば、幕末期においては、庶民は主体的に幕府政治に参加しうる環境にあったということになる。
KEYWORDS:
『明治維新に不都合な「新選組」の真実』
吉岡 孝 (著)
土方歳三戦没150年……
新選組は「賊軍」「敗者」となり、その本当の姿は葬られてきたが「剣豪集団」ではなく、近代戦を闘えるインテリジェンスを持った「武装銃兵」部隊だった!
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―――――そう語ったと読み取れる土方歳三の言葉とは!?
◆新選組の組織と理念は、本当は芹沢鴨が作った?
◆近藤勇より格上の天然理心流師範が多摩に実在!
◆新選組は幕末アウトロー界の頂点に君臨していた!?
◆幕末の「真の改革者」はみな江戸幕府の側にいた!!
ともすると幕末・明治は、国論が「勤王・佐幕」の2つに割れて、守旧派の幕府が、開明的な 近代主義者の「維新志士」たちによって打倒され、「日本の夜明け」=明治維新を迎えたかの ような、単純図式でとらえられがちです。ですが、このような善悪二元論的対立図式は、話と してはわかりやすいものの、議論を単純化するあまりに歴史の真実の姿を見えなくする弊害を もたらしてきました。
しかも歴史は勝者が描くもので、明治政府によって編まれた「近代日本史」は、江戸時代を 「封建=悪」とし、近代を「文明=善」とする思想を、学校教育を通じて全国民に深く浸透さ せてきました。
そんな「近代」の担い手たちにとって、かつて、もっとも手ごわかった相手が新選組でし た。新選組は、明治政府が「悪」と決めつけた江戸幕府の側に立って、幕府に仇なす勤王の志 士たちこそを「悪」として、次々と切り捨てていきました。
新選組の局長近藤勇は、自己の置かれている政治空間と立場を体系的に理解しており、一介 の浪士から幕閣内で驚異的な出世を遂げた人物です。そんな近藤の作った新選組という組織 を、原資料を丁寧に読み込み、編年形式で追いながら、情報・軍事・組織の面から新たな事実 を明らかにしていきます。
そこには「明治維新」にとって不都合な真実が、数多くみられるはずです。