「おかえりモネ」が描いた障害者スポーツのエゴ。パラリンピック的な思想とどう向き合うか。【宝泉薫】
もっとも、ハンディを負っている人に優しくありたいという気持ちはわかるし、自分にもそれはある。ただ、障害者スポーツでいえば、ときに自業自得という要素もなくはない。そのアスリートのなかには、もともと危険なことが大好きでそのために障害者になり、それでも危険なことへの誘惑を断ちがたく、別の危険なことに取り組んでいるような人もいるからだ。
マルクス・レームが片脚を失ったのも、ウェイクボード中の事故が原因。「おかえりモネ」の鮫島の下半身が不自由な理由は語られていないが、あの性格から見て、無茶をした結果である可能性を勘ぐってしまう。同情できるような過去の経緯を劇中で示してもらえれば、もっと好感を抱けたかもしれない。
なお、危険なことが好きでやめられないのも個性なので、それを活かしながらやっていくのもひとつの生き方だ。そこに惹かれ、面白がるのもひとつの生き方である。ただ、テレビで中継したり、子供たちに観戦させたりするほどのものでもないだろう。
なんてことを書くと、批判したくなる人もいるかもしれないが、これは善悪の問題ではない。五輪が苦手な人がけっして非人間的というわけでもないように、パラリンピックが苦手でもなんらおかしくはないわけだ。
いや、厳密にいえば、苦手なのはパラリンピックが象徴する思想。ここ数年、世界レベルで世間にはびこるポリコレ的な「正しさの同調圧力」を感じるからである。
そんなモヤモヤにつながる題材を、週6回やる朝ドラで見せられたのもちょっと苦手だったなとやはり言わざるをえない。鮫島風に言うなら「すんませんね、ポリコレ嫌いなもんで」といったところだ。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)