ドイツ電撃戦を支えた必殺の「空中砲兵」ユンカースJu87シュツーカ |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

ドイツ電撃戦を支えた必殺の「空中砲兵」ユンカースJu87シュツーカ

第二次大戦急降下爆撃機列伝③ ~必中のピンポイント爆撃に賭ける蒼空の破壊者~

■ドイツ電撃戦を支えた必殺の「空中砲兵」ユンカースJu87シュツーカ

正面から見ると上に向けて折り曲がった独特の逆ガル翼と、急降下時のブレーキ効果も考慮された固定式の主脚を備えたユンカースJu87は、きわめて優れた急降下爆撃機であり、大戦の後半には対戦車攻撃機としても重宝された。

 ドイツは第一次大戦に敗れた結果、連合国側が策定したヴェルサイユ条約によって、軍備の保有を厳しく制限されてしまった。戦車、戦艦、潜水艦、そして軍用航空機の保有も認められなかったのだ。

 ところが1933年にドイツ首相に就任したアドルフ・ヒトラーは1935年3月16日、ヴェルサイユ条約の破棄とドイツの再軍備を宣言した。その結果、条約時代には隠れ蓑とされていた航空省が、そのヴェールを脱いで新生のドイツ空軍となったとなったのである。

 第一次大戦後、ドイツは禁止されていた各種軍事関連技術の維持と研究を秘密裡に国外で継続しており、新たに創設されたドイツ空軍には、可能な限りの革新的な機材と理論が導入された。それらはさまざまな手段で集められたが、ヘルマン・ゲーリング空軍総司令官は、前大戦での「リヒトホーフェン・サーカス(第1戦闘航空団の愛称)」時代からの戦友のエルンスト・ウーデットがアメリカで経験し、その有効性を説いていた急降下爆撃の導入を特に推進させた。

 かくして、当時のドイツにとっては新しい機種である急降下爆撃機の開発がユンカース社に委ねられ、1935年9月17日、Ju87が初飛行に成功。これがドイツ空軍に採用され、シュトゥーカ(Stuka)の愛称で有名となった。なおシュトゥーカとは、ドイツ語の急降下爆撃機(Sturzkampfflugzeug)を略した言葉である。

 ユンカース社のヘルマン・ポールマン博士が設計主任を務めたJu87は、きわめて頑丈なだけでなく、構造的にも信頼性が高かった。これは、軍用機の中でも特に堅牢性が重視される急降下爆撃機としてまさに最適の資質であった。しかも当時としては先進的な、生産性向上のため機体の各部をブロックで生産して合体させるという合理的な設計のおかげで、生産性と整備性も高く使いやすい航空機に仕上がっていた。

 やがて第二次大戦が勃発すると、ポーランドをはじめとする各国への侵攻に際して、シュトゥーカはドイツ自慢の装甲部隊の先陣として「空飛ぶ砲兵」の役割を担い、電撃戦の立役者としてドイツ宣伝省の巧みなプロパガンダによって全世界に紹介された。だが戦争の進捗にともなって、この「シュトゥーカ神話」も崩壊してしまうことになる。

 戦闘機の保有数が少ない二流以下の国との戦いでは、その無敵ぶりを存分に発揮したシュトゥーカだったが、戦闘機保有数が多い列強との戦いにおいては、空戦でたやすく撃墜されてしまう事態が起こったのだ。つまりシュトゥーカは、味方の戦闘機による航空優勢が確保できて初めて、その真価を発揮できる機種だったのである。

 とはいえ、低速で頑丈だったことで、シュトゥーカは急降下爆撃機としてばかりでなく、対戦車攻撃機として改めて評価されることになった。そして左右の主翼下に37mm機関砲を1門ずつ計2門搭載した対戦車攻撃機型の通称カノーネンフォーゲル(ドイツ語で「大砲鳥」の意)が、第二次大戦末期まで活躍を続けている。

KEYWORDS:

オススメ記事

白石 光

しらいし ひかる

戦史研究家。1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。


この著者の記事一覧