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明智光秀を知将に育てたのは福井県だった!
~光秀が再起を誓った越前での10年を探る~

明智光秀の越前での足跡[PR]

2020年の大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀。その謎の前半生のうち、約10年ものあいだ越前国(福井県北部)に光秀がいたことを裏付ける手掛かりが残っているという。その資料を参考に福井県内のゆかりの地を訪ねた。

一乗谷朝倉氏遺跡・唐門
越前国を支配した戦国大名・朝倉氏の遺跡。面積は278ヘクタールという広大さを誇る。

越前で学んだ光秀は
医薬にも精通していた!?

 明智光秀――。

 その人気ぶりとは裏腹に、これほど謎の多い人物もいないかもしれない。とくに織田信長に仕えるまでの前半生、彼がどこで何をしていたのか、ハッキリ裏付けられる史料が乏しいため、曖昧にしか分かっていないのである。

 だが、研究者たちの情熱は歴史の新事実を次々と明らかにしてくれる。近年、熊本県で発見された医学書『針薬方(しんやくほう)』に「明智十兵衛(光秀)」の名前が見つかった。そこには光秀が永禄(えいろく)9年(1566)以前、近江(おうみ)田中城に立てこもった際、城方に「セイソ散」という傷薬の製法を伝えたことが記されているのだ。

『針薬方』
永禄9年(1566)に成立した医学書。「セヰソ散」や「明智十兵衛」の記述が見える。 (個人蔵/写真提供・熊本県立美術館)

「セイソ散」とは戦国大名・朝倉氏に伝わる秘薬。朝倉氏といえば越前(福井県)を本拠とした大名である。まずは、その朝倉氏の拠点であった一乗谷(いちじょうだに)の入口にある「福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館」を訪ねた。

福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館
朝倉氏遺跡から出土した遺物を管理、展示。2019年には明智光秀関連の展示も行った。

「医学書『針薬方』に、セイソ散が『越州(えっしゅう)朝倉家之薬』、つまり朝倉家の傷薬であると書いてあることに気付いたときは思わず眼を疑いました。そこから分かったのは、光秀が朝倉家の秘薬を知っていたということです。それは光秀と朝倉家の直接的な接点を裏付けています」

 学芸員の石川美咲さんが説明してくださった。館内には『湯液本草(とうえきほんぞう)』という医学書が焼け残った紙片や、薬材をすりつぶす道具である「薬研(やげん)」、薬を扱ったと思われる「銅匙(どうさじ)」など医術に関連した遺物が複数展示されている。いずれも一乗谷の朝倉氏遺跡から出土したものであり、ここで「セイソ散」などの薬剤が製造されていた事実を物語っている。

 資料館を出て朝倉氏遺跡に向かうと、その広大な遺跡の一角に、医師の屋敷と特定されたエリアがあった。

「一乗谷では医学書の伝授が行われていたことも判明しています。越前に滞在中の光秀が、ここを訪れて医薬の知識を得た可能性は大いに想定できるでしょう」と、石川さん。

 知将・明智光秀は医学にも通じたのだろうか。これらの記録や遺物の発見により、今までの光秀像に大きな一石が投じられている。

KEYWORDS:

『歴史人 2020年2月号』

 

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