「大威力を加へたるを喜ぶ」4年間に及ぶ重圧、覚悟と戦った300万人の結晶・戦艦大和の船出
戦艦「大和」の生涯~構想から終焉まで~③
◼️1940年(昭和15年)8月8日、煙幕の中から「大和」進水!
1940(昭和15)年8月6日、「第一号艦」では2日後に控えた進水式のためのテストが行われている。半完成の船体は、後部に4,500トンの重量が片寄っていた。
後部トリム喫水は8メートル、艦首トリム約5メートル、このままだと船渠(せんきょ・船の建造、修理、係船、荷役作業などのために築造された設備)から出渠(しゅっきょ・船渠から船体を出す)出来ない。前部に海水を3,000トン注水してバランスを取った。
艦が船渠内で浮上した時、水線長256メートルの前後部の喫水差は60ミリだった。計算通り浮上したのは、建造中の重量測定が厳密に行われたことを示している。
造船部の設計係の中に「其の他図面調製に係る諸係」があり、その重量係は①搭載重量月報、旬報、日報、②完成予想重量重心算出、③喫水およびデフレクション測定等を担当していた。そして艦側重量係は毎日、鋲1本をも計算していたのである。
そこで計測した重量から推計し、今度は実際に浮き上がった時の喫水、排水量と比較してどのくらい不明重量が出るか検討していた。
「第一号艦」は、このような地道な努力の積重ねに支えられて完成に近付いていったのである。
8月8日午前6時、「第一号艦」は船渠内に浮揚した。
陛下の名代として久邇宮殿下が式台の中央に立った。午前8時20分、呉鎮守府司令長官日比野正治中将が、海軍大臣吉田善吾大将の代理として艦の前面に向かい命名書を朗読した。
「軍艦大和昭和12年11月4日工ヲ起シ今ヤ船体成ルヲ告ケココニ命名ノ式ヲ挙ケ進水セシメラル」
砂川兼雄工廠長から造船部長庭田尚三造船少将へ進水命令が下った。進水担当主任の吉井造船大佐は、号笛指揮により進水作業を開始した。
「用意」「纜索張合せ」「曳き方始め」「推進用意よし」。
工廠長は式台上の支綱を金斧で切断した。薬玉が割れ、7羽の鳩が圧搾空気で吹き上げられた五色の紙吹雪と共に舞い上がり、進水式は無事終了した。
「大和」は、秘密保持のため展張せられた煙幕の中を渠外に曳き出されたのである。
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『戦艦大和建造秘録 【完全復刻改訂版】[資料・写真集] 』
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大和船体被害状況図(比島沖海戦時)
大和・復元図面 ①一般配置図 ②船体線図/中央切断図/防御要領図