「大威力を加へたるを喜ぶ」4年間に及ぶ重圧、覚悟と戦った300万人の結晶・戦艦大和の船出
戦艦「大和」の生涯~構想から終焉まで~③
■1941年(昭和16年)12月16日、「大和」は山本五十六大将の第一戦隊に編入
1941(昭和16)年9月5日、宮里秀徳大佐が初代の艤装員長に発令(10月15日付けで少将に昇任)され、10月16日から遂に「大和」は動き出した。予行運転開始である。10月20日には全力予行運転、同30日には全力公試運転が宿毛沖で行われ、12月7日には主砲の公試も実施された。すべて予期の性能どおりである。
話は少し前後するが、11月1日には艤装員長の交替があった。二代目艤装員長に高柳儀八大佐が発令され、彼はそのまま「大和」初代艦長の栄を担うことになる。
そして運命の12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。この日「大和」は最後の公試を終え、呉へ帰投している。
庭田造船部長の勤務録メモによれば、以下の工数、人員に達したと言われている。
●他に廠外への注文工数約100,000工数を加えると約200万工数
⦿人員に直すと約150万人の延人員
●造機部門関係のタービン、汽缶等の製造から現物取り付けまで約50万工数
●砲熕部も約100万工数
⦿電気部、水雷部など実際に建造に関係した総延人員は300万人以上
今から60年程前の4年間のこの数字は、「大和」の工事が如何に大規模だったかを示すものだった。
このように日本が膨大なエネルギーを費やして完成させた戦艦「大和」は、太平洋戦争開戦時に日本海軍自らが実証した海上航空機動兵力の作戦成功によって、後に戦う場を失ってしまうのである。
同型三、四番軍艦の2隻は、戦艦として建造を中止され、一隻は航空母艦、もう一隻はスクラップとなった。航空母艦に改造された「信濃」は、処女航海で米潜水艦から魚雷4本を受け、あえない最期を遂げることになる。
1941(昭和16)年12月16日、「大和」は遂に完成した。本籍も呉鎮守府と定められ、連合艦隊司令長官山本五十六大将直率の第一戦隊に編入された。同戦隊は連合艦隊旗艦「長門」以下、「陸奥」「大和」の3隻編成となったのである。連合艦隊参謀長宇垣纒少将の日記「戦藻録」の同日の頃には、次のように記されている。
「本日を以て大和竣工、艦籍に入り第一戦隊に編入せらる。大威力を加へたるを喜ぶ」と。
1942(昭和17)年2月12日、「大和」は連合艦隊の旗艦となった。
3カ月後の5月29日、「大和」はミッドウェー作戦に参加した。内海西部の連合艦隊泊地柱島を出撃し空母機動部隊の後方約300浬を航行する本艦は、航空機の対艦攻撃の激しさも、対空砲火の効果をも体験することなく、2週間後に帰投する。
この時以降「大和」は、当分の間太平洋戦域で激しく繰り広げられた海空戦に参加することもなく、ただ航空機の脅威に備えて対空火器の増備を行っていたのである。この間に本艦艦長は、二代目松田千秋大佐に交替している。
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大和・復元図面 ①一般配置図 ②船体線図/中央切断図/防御要領図