【大和轟沈75年 1945.04.07滅失への道】 なぜ戦艦「大和」は造られたのか〜建艦競走の激化がもたらした産物〜
戦艦「大和」の生涯 ~構想から終焉まで~①
「大和」の誕生から1945年4月7日、沖縄海上特攻で轟沈する生涯までの歴史と向き合い、単なる賛美に終わることなく当時の国際関係の過程と帰結を踏まえ、建造から戦果に命を捧げた日本人の矜持を探っていきたい。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より構成)
◼️大鑑巨砲への道
戦艦「大和」は、日清、日露の両戦争、そして第一次大戦を含む約四半世紀の戦訓を取り入れて設計、建造された画期的な軍艦だった。
日本海軍は艦隊戦闘は、昼間に主力艦主砲威力の極度発揮によって敵主力を撃滅するのが伝統的兵術の基本だったのである。
その結果、戦艦「大和」は、世界最大の18.11インチ(46センチ)砲9門を搭載し、防御力を含む総合戦闘力に優れた戦艦として誕生した。
●全長:263.00メートル
●最大幅:38.90メートル
●深さ:18.915メートル
●45口径46センチ3連装砲塔:3基9門
●60口径15.5センチ3連装砲塔:4基12門
●40口径12.7センチ連装高角砲:12基24門
まさに戦艦「大和」は最大、最強の戦艦だった。
艦隊決戦において勝敗を決するのは、主力艦同士の戦闘にあるとする戦艦中心主義が確立されたのは、1905(明治38)年に生起した日本海海戦だった。日本海軍は、露国バルチック艦隊38隻中約半数を、戦艦と装甲巡洋艦の砲撃で撃沈し、勝利を得たのである。
世界有力海軍国、特に英国はこの戦訓に倣って、戦艦、巡洋戦艦を中心とする軍備競争に向かってスタートしたのである。
その頃日米両海軍は、戦艦を中心勢力として建艦を進めていた。
1905年英国海軍は、「弩級(ド級)戦艦」と称して世界海軍の強大艦の代名詞となった戦艦「ドレッドノート」を起工した。
同艦は副砲を廃して12インチ(30センチ)主砲10門を搭載し、蒸気タービン推進を採用した画期的な戦艦だった。日本海軍の既成戦艦は、「ドレッドノート」の開発によって一挙に旧式艦になってしまったのである。
これが「大艦巨砲時代の幕開け」となり、各国は、それ以上の戦艦を建造しようと建艦競争を加速させて行くのである。
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KEYWORDS:
『戦艦大和建造秘録 【完全復刻改訂版】[資料・写真集] 』
原 勝洋 (著)
なぜ、「大和」は活躍できなかったのか?
なぜ、「大和」は航空戦力を前に「無用の長物」だったのか?
「大和」の魅力にとりつかれ、人生の大半を「大和」調査に費やした編著者の原 勝洋氏が新たなデータを駆使し、こうした通俗的な「常識」で戦艦「大和」をとらえる思考パターンの「罠」から解放する。
2020年、「大和」轟沈75周年
世界に誇るべき日本の最高傑作、戦艦「大和」の全貌が「設計図」から「轟沈」まで、今ここによみがえる!「米国国立公文書館Ⅱ」より入手した青焼き軍極秘文書、圧巻の350ページ。さらに1945年4月7日「沖縄特攻」戦闘時[未公開]写真収録
【大型折込付録】
大和船体被害状況図(比島沖海戦時)
大和・復元図面 ①一般配置図 ②船体線図/中央切断図/防御要領図