明智秀満や斎藤利三など、光秀に付き従った「明智家臣団」〜 大河ドラマ『麒麟がくる』後半を先取り予習!
「歴史人こぼれ話」2020年3月号
■家臣団の横顔
明智家臣団の中核となったのは、光秀の出身地と推定される美濃出身の家臣たちだった。
本能寺の変で抜群の活躍をしたのは、斎藤内蔵助利三である。利三は天文3年(1534)に利賢の子として誕生し、もともとは斎藤氏配下の「西美濃三人衆」の一人・稲葉一鉄(良通)に仕えていた。しかし、利三は一鉄との関係が悪化したため、のちに光秀に仕官するようになった。その時期は元亀元年(1570)が有力視されている(天正10年説がある)。なお、兄の頼辰は、室町幕府の奉公衆・石谷光政の養子となった。
美濃出身者としては、可児与十郎の名が見える。岐阜県南部には可児市があり、美濃国可児郡が可児氏の出自だったと考えられる。『兼見卿記』には、可児六郎左衛門尉、同彦法師らの名前が見え、一族と推定されている。
山崎の戦い後、討たれた光秀の首を隠したのが溝尾庄兵衛である。天正7年4月の光秀の書状(和田弥十郎宛)には「同名(明智)少兵衛」とあり、この人物が溝尾庄兵衛ではないかと指摘されている。『惟任退治記』には「明智勝兵衛」が登場しており、読み方が「勝」=「少」「庄」なので同一人物の可能性が高く、庄兵衛も光秀から明智の姓を与えられていた。
『信長公記』(池田家本)に「ミ沢昌兵衛」、天正四年二月の副状の発給者「三沢惣兵衛尉秀儀」を溝尾庄兵衛と同一人とする説もある。また、福井県の「称名寺文書」には、天正元年10月1日に発給された、三沢少兵衛尉の文書が残っている。光秀は朝倉氏滅亡後に越前に留まり、政務を担当していた。いずれも溝尾庄兵衛と同一人物(あるいは縁者)であるか確証を得ないが、今後の課題である。
光秀が支配していた近江関係では、猪飼氏、大中寺氏、川野氏、堀田氏、小黒氏などの存在が確認できる。うち猪飼秀貞は、明智姓を与えられていた。山城国愛宕郡の関係では、佐竹氏、山本氏、渡辺氏、磯谷氏の面々が光秀に従っていたことが判明している。
丹波では船井郡の土豪の小畠国明・伊勢千代丸の父子が光秀の配下におり、伊勢千代丸もまた明智姓を与えられていた(「小畠文書」)。光秀は山城で京都支配を担当し、同時に信長から近江や丹波は支配を任されていた。光秀は支配を展開していくうちに彼らを配下に収め、ときに明智姓を与えて、主従間の結合を強化しようとしたと考えられる。
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