今川義元 生誕五百年祭が集大成へ! 駿府発展の礎を築いた「今川義元の功績を再評価する!」
今川義元がつくった国・駿府を巡る
歴史は勝者の理論に置き換えられる! 大軍を率いながらも桶狭間の戦いでは少数の信長軍に敗れたため、「公家かぶれの凡将」などと揶揄されてきた今川義元。しかし、近年の歴史研究では、武将としての評価や領国経営の手腕が見直されている。
昨年の生誕500年祭を契機に今川→徳川、そして現在の静岡市へと続く駿府、その歴史を感じつつ義元の功績を再評価し、今川ゆかりの史跡巡りを提案しよう!
昨年の生誕500年祭を契機に今川→徳川、そして現在の静岡市へと続く駿府、その歴史を感じつつ義元の功績を再評価し、今川ゆかりの史跡巡りを提案しよう!
■家康も幼少期〜元服まで今川家の教育で育った
徳川家康は松平竹千代といっていた8歳から元服後の19歳まで、駿府(すんぷ)において今川義元の「人質」として生活をした。「人質」といっても優遇された「人質」で、義元の軍師だった太原崇孚(たいげんそうふ)、すなわち雪斎(せっさい)の教えを受けていたのである。
雪斎からは兵法だけでなく、将来、リーダーとなるための心得なども学んだものと思われる。
また、今川義元の先進的な商業政策や、駿府の町づくりの実態などを目にしており、それらが、やがて駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河(みかわ)・甲斐(かい)・信濃(しなの)の5ヵ国時代、さらに将軍になってからも生かされることになった。
■今川家のルーツと義元の台頭以降の領国経営
今川義元は戦国大名初代にカウントされる今川氏親(うじちか)の5男として生まれている。
家督は兄の氏輝(うじてる)が継いでいたが、その氏輝が天文5年(1536)、24歳の若さで歿し、子どももいなかったため、僧侶となっていた義元
(栴岳承芳[せんがくしょうほう])と兄の玄広恵探(げんこうえたん)が家督を争って戦うことになった。この争いを花蔵(はなぐら)の乱といっているが、勝った義元は、それまで戦っていた隣国甲斐の武田信虎(のぶとら)と手を結び、領国経営に乗り出し、父氏親が制定した「今川仮名目録」に追加した「仮名目録追加」を制定して、時代の変化に対応する施策を進めた。
また、自分の養育係でもあった雪斎を軍師として三河への侵攻を本格化させるとともに、甲斐の武田信玄、相模(さがみ)の北条氏康(ほうじょううじやす)との間に「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」を結び、駿河・遠江・三河の3ヵ国を支配し、「海道一の弓取り」といわれた。
京都の公家も今川義元を頼り駿府に何人も下ったため、今川文化の花が咲くこととなった。
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