日本人の皇室への無自覚な心理的依存としての「眞子様事変」 【藤森かよこ】
皇室なき日本という共同体は日本人の心に成立するか?
■皇室や王室が続く理由
清教徒革命にしても名誉革命にしても、実際はカトリックと国教会の対立や、イングランドとスコットランドとアイルランドの対立など、議会と王との対立以外にも、いろいろな紛争理由があったが、それはさておき、要するに、私がここで言いたいことは、英国は、国王を処刑したり追放したりはしたが、王制を継続させたということだ。
なぜ継続させたのか? その理由については、高校の世界史の授業では教えてもらえなかった。私が考えるその理由は、やはり国家という共同体には、神と歴史と国家を繋ぐ聖なる特別な人間が存在するという「神話」が必要だということだ。その聖なる人物が、王や天皇たる「国父」であり、女王や王妃や皇后たる「国母」である。
どうも、そういうファンタジーがないと人間は寂しいらしい。そのファンタジーは、もちろん個人が心の奥に抱く「存在しなかったが存在したかもしれない理想の自分の家族」への憧憬と郷愁の産物でもある。
ただの統治体である政府と、被統治者である人民で成立する移民国家や多民族国家ではなく、「自分たちは同胞だ」と信じることができる共同体としての国家は、「国家」と呼ぶくらいだから、拡大した家族である。その家長が王や天皇である。その大きな家族としての共同体の起源を厳密にたどれば、家長の祖先は異国からの征服者だったかもしれないにしても。
ともかく国家という共同体の要になるには、国会議員たちが束になってかかっても、「国民みんなの家族で、神と歴史を私たち国民の共同体に連結させることができる特別な存在としての王室」というファンタジーにはかなわなかったのだ。ファンタジーのほうが事実より強いことは、よくあることだ。
ダイアナ元妃の事故死を嘆いた英国民にとっては、ダイアナ元妃は、「我らが英国を神と歴史に繋げる特別な役割を持った旧家であり、我らの代表たる家族の長男の妻になったけれども、婚家の精神風土に馴染めず、かつ夫の不倫に悩み、勇気を奮って離婚して新しい人生を歩み始めたのに、若くして亡くなった可哀想な美しい女性」だったのだ。決して他人ではなかったのだ。
そのような英国人の意識も、Netflixが提供する英国王室連続ドラマのThe Crown を視聴する限り、かなり薄まりつつあるようだ。ああいう皇室暴露話ドラマが視聴者の人気を得ているということは、英国国民が王室の等身大の姿を受け容れていく、つまりファンタジーから解放されつつあるということを示唆しているから。
さて、将来、王室が英国国家という共同体意識の要にならなくなったならば、英国民は何を拠り所として共同体意識を維持強化するのだろうか。