見せることと隠すことのエロティックな攻防戦
【第12回】美女ジャケはかく語りき 1950年代のアメリカを象徴するヴィーナスたち
■ただ肩を出せばいいってもんじゃない、
我々は肩紐が「落ちちゃった」肩が見たいのだ!
本連載では、タイトルからしてざっくりと「美女ジャケ」という言葉を使っているが、似たようなジャンルに「ヌードジャケ」、「お色気ジャケ」、「エロジャケ」、「フェロモンジャケ」なんてのがある。
たとえばヤフオクのレコード・ジャンルで、これらの語を入力して検索すると、それなりの数がヒットするから、もうかなり前からヴァイナル派には定着した用語なのである。
だいたいはジャケに白人モデルのヌードを使った国内盤が多いが、有名タレント、たとえば若き日の夏木マリとか浅野ゆう子(どちらも大好きでした!)のジャケなんかにも「お色気」や「フェロモン」の見出しがつけられている。
とはいえ「フェロモン」などはかなり昭和臭が強い単語で、もういまの20代の人は、ほとんど使わないだろう。
ヌードジャケは、昭和40年代(1965~75)の和物ムード音楽がほとんどだ。
なぜ、日本でこれだけヌードを使ったムード音楽が流行ったのか? かなり謎である。
欧米盤にももちろんヌードジャケはあるが、乳首まで見せてるヌードジャケのリリース量では、日本は世界のどの国よりも圧倒的に多かったのではないか?
このあたりは『BED SIDE MUSIC めくるめくお色気レコジャケ宇宙』の著者である山口’Gucci’佳宏さんと対談したときに質問しておけばよかったと悔いる。
筆者は完全な着衣派なので、ヌードものとか乳首が見えているものには興味が湧かず、もっぱら「美女ジャケ」界隈を収集してきたが、なぜ着衣のほうがエロティックかというと、そこに「見せることと隠すことの攻防」があるからだと思っている。
たとえばジョージー・オールドのシングル盤「all the things you are」は、燃えるような真っ赤な地に女性のけだるいポーズ。上衣だけ白くして目立たせているが、この目立たせ方は、左の肩紐が落ちていることを視認させるのにも効果を発揮している。
そう、女性が半分、肩を露出するだけで、なんとエロティックになってしまうのだろう! これはサインだよね、もちろん。「もう片方もわたしが下ろすの? それともあなたが?」的な。
映画でいえば、この片側だけ落ちた肩紐の女性の誘惑的な眼差しのあと、男は無我夢中で彼女の肩からうなじにキスを注ぐ。そんな感じでしょう。
男はどうにも一方だけが落ちた肩紐に弱い。いや、両方落ちたのにも弱いのだが、順番として片方から。両方は意図的すぎるが、片方というのは、日常の何気ない仕草でいくらでも演出できる。女性さえ意図すれば。
露出の多くなかった昔の映画では、女が男と部屋で密会する前に、鏡を見て煙草を吸いながら片方だけ肩を露出して会いに行く、なんてシーンがよくある。これなんてあからさまに誘惑の仕草にほかならない。
なので、ジェイ・ゴードン・ストリング・オーケストラの「MUSIC FOR A LONELY NIGHT」もエロティックな写真というわけではないのに、赤いシュミーズ(もしくはブラ)の左肩の紐が落ちているのが異様に気になってしまう。
まさか騎乗位で? なんてことはないでしょうが、端正な美女の顔の向きもなんか微妙すぎてとても気になってしまうのだ。しかも彼女が赤毛というのも、下着にマッチして、このあたりのスタイリングというか、アートディレクションは見事。
もう少しあからさまに扇情的なのがバディ・ブレグマンの「Swinging Kicks」だ。
ベッドの上でネグリジェの肩が落ち、しかも太ももを露出させた美女。なんといっても素晴らしいのは、斜め後ろから撮っていることだ。
男ならこのまま近づいて後ろから抱き寄せて、愛撫することを想像するのではないだろうか? しないかな?
そういう夢想をさせるという意味で「美女ジャケ」とは、あくまで男性目線でつくられたもので、フェミニストのなかには怒る人も多いだろうと想像する。でも、もう半世紀以上も前の作品。いまは絶滅種みたいなものだから、そこは笑って見て欲しいと思う。
洗練された「Swinging Kicks」に対して、ちょっと野暮なのがジェラルド・ブレネの「A Moment of Desire」。手描きの煉瓦模様の壁の前でバスローブかなにかの肩を下ろして横たわる、あまり美女とは思えない女性。
肩を出せば良いというわけではないし、右肩ははっきり「脱いで」しまっている、つまり「落ちている」ではないあたりが、どうにも感興をそそらない。
エロティシズムとは、微妙な「機知」のようなものだから、あまり明確な仕草では、エロティックではなくなってしまうのだ。
こう見ていると「落とし方」、「見せ方」の技法というものがたしかに在ると思えてくる。いや、当たり前にあるのだ。
ベッドで背中をもろ出しにしたフィル・サンケルズ・ジャズバンドの「every morning I listen to…」は、そんな「見せ方」がとてもソフィストケイトされたジャケットだ。
室内の落ち着いた雰囲気、はだけたシーツ。よく見るとお尻のあたりまではだけていて、この女性は下着を着けてないだろうと想像する。
しかも彼女は寝ていない! ここが重要なのだが、ベッドの前のスタンドに伸ばした手って、明らかにこれは起きているときのポーズ。しかもその手の指が、まったくもってエロティックな具合なのだ。これって愛撫する手つきでしょう?
優雅で落ち着きがありながら、そこから密やかに醸しだされるエロティシズム。まず、背中に目がいき、そこから手先に視線が移り、なんとも言えないセクシュアリティを感じてしまう。
「見せ方」の技法としては、最上級のものだろう。
ほんとうに男というのは哀れな生き物で、女性の身体の各部からエロティシズムを嗅ぎだしては、興奮するものだ。見せ方が足りなければ、もっと見せろ、と要求し、簡単に見せすぎると、もう少しじらして欲しいなどと願う。
だからエロティシズムの究極を言えば、男なぞは女のただの玩具(おもちゃ)にすぎない。男の視姦的まなざしは、「見る」という優位に立ちながらも、それを感じ取った女の「見せる」技法に簡単に操作され、優位性は女の側に移ってしまう。
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