75年前のその時、戦艦「大和」に何が起こっていたのか⁉【特攻まであと6日】
戦艦「大和」轟沈 75年目の真実①
■被雷10本、被爆5発。延べ1000機にも及ぶ敵機襲来
軍艦大和の被害沈没の状況は、終戦4カ月前ということもあって詳細な状況調査を実施されることはなく、将来の戦訓に当てる余裕も熱意もなくした日本海軍にあって、信頼できる沈没記録が残ることはなかった。
これまで「大和」の沈没は、延べ1000機に及ぶ敵機の攻撃を受け、魚雷12本、大型爆弾7発、小型爆弾無数の命中を受け、艦全体に大被害をこうむって遂に沈没したと伝えられている。
九死に一生を得た生存者が残した軍極秘大和機密第1号の6、軍艦大和戦闘詳報(作成昭和20年4月20日、提出5月9日)、そして共に戦った第2水雷戦隊機密特第29号戦闘詳報がその激闘の様子を知る唯一の公式記録である。軍艦大和戦闘詳報は被雷10本、被爆5発、そして第二水雷戦隊戦闘詳報は被雷10本、被爆6発としている。
一方、米海軍は終戦後ただちに日本に技術団を送り込み、日本海軍艦艇の沈没状況を調査した。その興味の対象となったのが大和型戦艦であった。
調査団は日米の言葉の弊害を越えて奇跡的に生き残った生存者、防禦総指揮官能村次郎副長、副砲術長清水芳人、第二艦隊参謀長森下信衞、同砲術参謀宮本鷹雄を呼び寄せ、「大和」沈没の真相に迫った。米海軍技術調査団は「艦艇と関連する対象」と題する報告書によると、大和沈没状況を分析するための手懸りを、元日本海軍造艦技術者に求め、設計図の引き直し、基本となる要目データの設計計算のやり直しを指示していた。
能村副長は、戦闘中には前檣下部にある厳重に防禦された司令塔内の配置にあり、外部は全く見ることができないが、艦内の状況は計器と通信装置で把握できた。 清水副砲術長は海面から眼高29.5メートルに位置する左右二基の方位盤と照準装置を備えた副砲指揮所で対空指揮をとっていた。
海面から眼高34.3メートルにある第一艦橋(昼戦闘)右舷窓側の伊藤司令長官の後方に立つ森下参謀長は数カ月前まで「大和」艦長を勤め、「捷一号作戦」中の対空戦の指揮をとった本人であった。
宮本砲術参謀は、前檣第1艦橋下部6階付近にある海面から眼高25.7メートルに位置する第2艦橋で配置についていた。 技術団はこれら3人から得た情報に基づいて「大和」沈没の状況を分析した。そして「大和」へ加えられた魚雷命中確実9本(左舷7本、右舷2本)と、証言による艦の傾斜および浸水量を勘案し、魚雷の左舷への命中公算大1本、公算小2本と分析、爆弾命中は4発とした。 しかし、いずれの分析も「大和」を直接攻撃したパイロットの攻撃直後の記録と比較照合して作成したものではなかったのである。〈つづく〉