その時「大和」後部副砲円筒支筒下部に致命的被弾! 「雷跡が白く何本も向かってくる」【特攻まであと3日】
戦艦「大和」轟沈 75年目の真実④
太平洋戦争最大の謎となる「天一号作戦」、「戦艦大和ノ最期」に迫る第4回。技術者による緻密な設計で建造された「大和」。大型爆弾も確実に防御できる造船計画ではあったがリアルな戦場になると机上では想定できない事態が発生するというもの。そしてそのわずかな弱点が「大和」の未来を左右する取り返しのつかないこととなってしまったのである。(原勝洋 編著『真相・戦艦大和ノ最期』第8章・写真『戦艦大和建造秘録』より引用)
■致命的弱点箇所へ被弾。沈むまで消えなかった炎
大和型戦艦の副砲塔の対爆弾防禦には致命的な弱点があった。それは「最上型」巡洋艦の陸揚げ品をそのまま流用したことにあった。
特に後部副砲の露出した円筒支筒下部は主砲火薬庫に隣接しているので最も危険とされた。
この円筒は、撃角が大きければ大型爆弾を確実に防御できると考えられていた。しかし、撃角の少ない爆弾の貫徹力に対し脆弱性が指摘され、射撃実験の結果800キログラム爆弾にも耐え得る対策として円筒支筒に28ミリ程度の甲鈑を加えることになる。そして防焔機構そのものは完全と考えられていたので、砲塔旋回部に入る爆弾の炸裂に対しては、元来の防焔装置の板厚を増し、中甲板貫通部に不規則な形の防焔板を間隙なく装備したことによって耐えられると思われていた。
しかし、戦闘開始直後「大和」は改造されたとはいえ、致命的な弱点を内蔵する部分に被弾し火災を生じたのであった。緩降下爆撃の小さな撃角による被弾という初めの計画では予期しなかった危機に、「大和」はその弱点を突かれ火災を発生させた。造船計画としては、砲塔の防焔装置を信頼していたのだから、防御計画上の過失ではないとする見方があったが、結局この一撃が、「大和」の命取りとなったことを考えると、安全対策に甘さがあったことは、否定できないであろう。
運用科8班応急班長の井高芳雄は、「第一弾命中、火薬庫火災。副砲に爆弾が当たり、一番弱い副砲塔のアーマーを貫いて火薬庫に入った。命令は火薬庫に救援に行け、どこが火元か確認できない。火災は沈むまで消えなかった」と火災現場の状況を証言している。
軍艦大和戦闘詳報に「一機撃墜」と記載されていたのは、本当だろうか。
第82爆撃機中隊所属機の戦闘報告は、「SB2C1機損失(恐らく対空砲火)2名行方不明、ほか2機が艦上で修理可能な被害」と報告していた。
この撃墜された機に撮影用カメラが装備されていた。そこで、「ベニントン」隊が「大和」を攻撃した状況は、映像に記録されることはなかったのである。
米軍記録は、引き続きこの時間帯に第17爆撃機中隊の14機中7機が、「大和」を爆撃したことを明らかにしている。
この7機は、「大和」主砲の発砲を見て避弾のための旋回を終えると、高度900ないし1200メートル付近に低く垂れ込める雲の切れ間をぬって緩降下爆撃を敢行した。
高度約300メートルから合計12発、1000ポンド半徹甲爆弾と徹甲爆弾各6発が投下された。 3名の操縦士は「大和」の上部構造と煙突の後方、艦首部付近への直撃弾を報告している。現存する撮影された3枚の連続写真は、そのうちの何発かが「大和」の前艦橋後部の兵員待機室付近に炸裂し、黒煙を吹き上げていることを示している。
そして軍艦大和戦闘詳報が一切触れていない艦首部付近への命中は、別の米軍撮影の写真にその痕跡が示されていた。その一弾は、「大和」右艦首波除け部角にあたる舷側部を直撃していた。
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