「コロナ禍」以後のディストピア未来予測とは?
「自由やプライバシーより安全が大事か?」国際的知識人の見解にご注意!
■コロナ危機で強化される国民監視体制を暗に支持?
ハラリは、以下のように書いている。
こう書いて、ハラリは、中国やイスラエルの市民監視システムについて紹介する。
たとえば、中国では、国民のスマートフォンを監視し、顔認証機能を持つ監視カメラを何億台も配置し、市民に関する個人情報を収集しつつ、市民に体温や健康状態の報告をさせ、新型コロナウイルス感染者の早期発見に努め、感染者に近づくと警告を発するアプリまで開発されているとか。
イスラエルのネタニヤフ首相はイスラエル公安庁に対し、新型コロナの患者を追跡するために通常はテロリスト対策にしか使わない監視技術の利用を認めたとか。
さらに、ハラリは、監視技術はすさまじい速度で発展しているとして、以下のように書く。
この「皮膚の上」ではなく、「皮膚の下」とは、たとえばマイクロチップスなど市民の皮膚の下に注入すれば、その市民の測定データが蓄積され、当局に送信されるということらしい。
アルゴリズムで分析すると、当該人物の健康状態ばかりではなく、どこにいたか、誰と会っていたかまで把握することが可能になる。たとえば、何かのビデオクリップを視聴している際の体温や血圧、心拍数を計測できるようになれば、どこで笑い、泣き、心の底から怒りを感じたかまでわかるようになる。
つまり、企業や政府が市民の生体データを収集し始めれば、企業や政府は、私たち自身よりもはるかにしっかりと市民を把握できるということだ。つまり、市民を操作できるということだ。
■自由やプライバシーより安全が大事か?
どうも、今の新型コロナウイルス危機の世界においては、感染拡大阻止という大義名分のもとに、市民の自由とプライバシーの侵害は許容されるべきだというのが世論であり正論であるようだ。安全と自由のどちらを選ぶかと言えば、安全であるのが世論であり正論であるようだ。
私自身は、自由やプライバシーを守るほうが大事であると思う。人間はどっちみち、病気や事故で誰でも死ぬ。死自体は阻止できるものではない。しかし、自由やプライバシーが侵害される事態は阻止できる。
そもそも、この危機は一度では終わらない可能性が高い。第二波、第三波があるかもしれない。新型コロナウイルスは非常に変異が多いタイプのウイルスらしい。https://news.yahoo.co.jp/byline/endohomare/20200310-00166933/
パンデミックは簡単には収束しない。「スペイン風邪」は1918年から20年にかけて2年間も流行した。速水融の『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店、2006)によると、日本では、スペイン風邪は2回にわたって流行した。『前流行』(1918年11月~1919年6月)、と『後流行』(1919年12月~1920年6月)である。一方、スペイン風邪の日本における流行を第1回、第2回、第3回の3つに分けている資料もある。https://bunshun.jp/articles/-/37210
つまり、緊急事態だから、市民の自由やプライバシーの侵害はいたしかたないという事態が、一時的措置ではなく、なかば恒常的にされてしまうことがありえる。
前提として、一般市民には政府やメディアや専門家が言うことが事実かどうかはわからない。ただ、事実だと信じるしかないから信じるだけだ。ほんとうは、市民の自由やプライバシーの侵害をする必要もないが、市民統治の観点から市民監視体制の強化をしておくほうが便利だと政府が判断し、それが実践されたとしても、それを見破ることなどできない。
■未来予測という呪縛
しかし、いろいろな識者が、コロナ危機に関して「人命が大事なので、監視体制や政府の権限拡大が必要」という見解を提示すると、それらが重なると、それらの見解が、単なる個人の識者の見解以上のものに思えてくる。
ハラリの「コロナ後の世界に関する警告」は、新型コロナウイルス危機以後の世界は、こうなってはいけないという警告文である。一見すれば、そうである。
しかし、「こうなるかもしれません」という見解を通り越して、「こうなるでしょう」という予言じみた言葉になり、ついには、「こうなることは規定路線ですから、心構えをしておいてください」と告げるような響きを帯びていると、私は感じてしまう。
こういう言説が、あちこちから出てきて流通することにより、私たちは、ディストピア的未来のヴィジョンを、抵抗するほうが間違っている類の倫理的既定路線として必ず起きるものとして錯覚し、受け容れてしまうのかもしれない。
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