「自分を他人と比べて、嫉妬してしまいがちな人」へ。【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第14回
だがそもそも、「なぜ」の理由がいつでも説明できると思っていること自体が間違いなのかもしれない。神はこうも言う。「(お前が)正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない」。わたしはあの人よりずっと頑張ってきたはずなのに! そのときの、その「あの人」へのわたしの評価はほんとうに正しいのか。わたしは「あの人」を公正に見ているのか。「自分はつねにあの人よりも頑張っている」というバイアスが、そこにはないか。わたしの知らないところで「あの人」もまた、わたし以上に努力を積み重ねてはいないか。
いいや。そんな理由を探すことさえ、けっきょくは不毛だ。どんなにあれこれ問うてみたところで、けっきょくあの人がわたしより上だったのか下だったのかなど、永久に分かりはしないのだから。決して分かりはしないことを無理やり分かろうとするところに、あの人への妬み、さらには憎しみさえ生じてくるのである。神はカインに対して、罪が戸口で待ち伏せているぞ、罪がお前を求めてくるぞと脅すだけではない。神は「お前はそれを支配しなければならない」と言う。では、罪を支配する方法とはなにか。それは、妬む相手についての詮索をやめること、これである。
なぜ、あの人はわたしより恵まれているのだろう。なぜ、あの人はわたしより優れているのだろう。そんなことは、神がなぜアベルを選んだのかカインには一切分からないように、わたしにも隠されていることである。隠されており、決して答えが出ない不条理をあれこれ詮索することほど、苦しいものはない。カインはそれで追い詰められて、アベルを殺してしまったのだ。他人を妬むことの恐ろしい闇を、この物語を伝えた古代の人たちも身に染みてわかっていた。
しかし、それでもである。わたしたちは身近な誰かを、つい妬んでしまうのである。よほど達観でもしない限り、わたしもあなたも、容易に誰かを妬む。この、どうやっても他人を妬んでしまうことについて、聖書は救済措置をとっているようにも思われる。弟アベルを殺してしまった兄カインは、自分の犯した罪の重さに今や押し潰されている。神話的にありそうな展開を考えるなら、ここでカインに天罰がくだされることが予想される。ところが聖書にはこう記されているのだ。