発病、事故、解雇…偶然の不幸な出来事から救われる手だてはあるのか?【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第16回
ただし、理由が分からないにもかかわらず、それでも理由を問わずにはいられないという思いは、厳然と存在する。その思いを自分独りで抑え込み、抱え込むことは耐えがたい苦痛である。教会では苦しみの理由を「神がそうしたから」云々と安易に解釈するのではなく、分からなくても問わずにはおれないという思いそのもの、その深い悲しみや怒りを分かちあうのである。
たしかに、そこに理由の判明や問題の解決は存在しない。自分以外の誰かと、このやりきれない思いを共有できるという、一時しのぎの安らぎがあるだけだ。それでも、この一時しのぎの安らぎが、その人の命を明日へとつなぐこともある。苦しみが大きい人は、何度も教会へ足を運ぶ。一回一回苦しみを分かちあうことで、この理不尽きわまりない痛みを受け容れたり諦めたりすることのできる、時の到来を待つのである。あるいは、受け容れることも諦めることもできなくても、それでもその思いと共に生きていく力を、少しずつ取り戻していくのである。
読者の方々はここまで読まれて、それは無神論となにがちがうのかと疑問を感じられたかもしれない。さまざまな出来事を神に紐づけて考えることが信仰ではないのかと。それがもはやできないとき、それを信仰と呼べるのかと。だが少なくとも、わたしにとって一つ一つの出来事を直接神に紐づけることが信仰なのではない。むしろ、わたしにはわたしの言葉にならない孤独があり、あなたにはあなたの、わたしとは異なるそれがあるのだが、それにもかかわらず、わたしたちは出遭うことがあり、なにかを分かちあう可能性をもっているということ。そして、じっさいにそれがしばしば実現すること。わたしはそこに神の導きを感じるのだ。出遭いという出来事は自分で操れるものではない。
「この人と出遭っていなかったら今の自分はない」とはっきり思える人が、わたしには何人もいる。また、自覚はしていないが、おそらくほかにもそういう人たちがいるはずである。これらの人々すべてとの出遭いを思うとき、その誰一人が欠けても、今のわたしは存在していなかったことになる。この不思議さをこそ、わたしは神に紐づけているのである。たしかにそれは世俗の言葉で言えば「たんなる偶然」なのだろう。だがわたしにとっては、我が意を超えて人と出遭ってしまうこと、この超越性こそが神的領域に属する出来事なのだ。
文:沼田和也