「聖子の娘」という宿命、神田沙也加、国民の「マイフェアレディ」として生きた35年の葛藤【宝泉薫】
神田沙也加は「特別な女の子」だった。ある年代以上の人にとっては、生まれたときから知っている存在だったりする。また、アニメ映画「アナと雪の女王」によって、若い世代にも広く知られるようになった。
こういう人は滅多にいない。生まれたときから世に知られるのは皇族か大スターの子供くらいだし、同世代以下の人にも知られるには、自らの力で何事かを為さなくてはならないからだ。
それゆえ、彼女の人生は濃密で苛酷なものになった。当然ながら、それは「松田聖子(と神田正輝)の娘」として生まれたときから始まっている。
沙也加が生まれたのは、1986年10月。石原裕次郎が彼女を抱く有名な写真があるが、聖子と正輝をくっつけたのも、この大物スターだといわれている。ふたりの接近を知り、結婚させれば石原プロの正輝が浮上できると考えた、というわけだ。自身の不妊症で子供に恵まれなかった裕次郎にとっては、娘が生まれたように愛しく思えたことだろう。
多くの国民にとっても「聖子の娘」は興味の対象となった。メディアもこぞって、その成長ぶりを追いかけたものだ。むしろ、出産後も留守がちで、自分の娘について「久々に会ったら、大きくなっていてビックリしました」などと遠洋漁業の漁師みたいなことを言っていた聖子より、世間のほうが熱心に見守っていたかもしれない。
とはいえ、沙也加が才能を受け継いでいなかったら、世間は冷めていっただろう。誰とは言わないが、お笑い怪獣と演技派女優の娘の例もある。才能を受け継いだからこそ、比較もされるし、期待や失望ももたらすのだ。
その点、沙也加はまず、そのアイドル性を受け継いでいた。たとえば、3、4歳くらいの姿について、こんな証言がある。
「実にかわいらしかった。聖子にとてもよく似ていて、お人形のように美しい」
聖子との不倫を告発したジェフ・ニコルスが『真実の愛』のなかで書いたものだ。
その後、歌唱力や演技力(こちらは正輝ゆずりだろうが)についても受け継いでいることが明らかになるわけだが、決定的な違いもあった。彼女が「大スターの娘」だったことだ。
それゆえ、凡人では味わえないような特殊な環境で生まれ育つことになる。『真実の愛』には聖子とジェフのもとに、その関係を知ったうえで正輝が遊びに来る場面があり、こんなことが書かれている。
「団欒の途中、娘さんが居間へ入って来た。彼女は、ご主人の方へはゆかず、真っ直ぐに僕の方へやって来た。僕の膝にちょこんと座る。恋人の娘を膝に抱き、恋人のご主人と雑談をするのは、何とも妙な気分だ」
こっちまで「妙な気分」になりそうだが、その特殊な環境はしだいにプレッシャーにもなっていっただろう。「大スターの娘」として常に注目される日々は、楽ではない。中学時代、イジメに遭い、四度も転校したという経験はトラウマとして残ったはずだ。
それもあって、彼女は漫画やアニメ、ゲームといった世界にハマっていった。その結果、芸術表現への欲求も高まることに。望めばいつでもデビューできる立場にいた彼女は2001年、本格的な芸能活動を開始する。
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