「3年間は自分の死を隠すべし……」
武田信玄の遺言状 第3回
覇王信長が最も恐れた武将・武田信玄。将軍足利義昭の求めに応じて上洛の軍を起こすが、その途上病に冒され、死の床につく。戦国きっての名将が、武田家の行く末を案じて遺した遺言には、乱世を生き抜く知恵が隠されていた――。
そして信玄はいう。
「葬儀はいらない。予の遺体は3年後の亥年4月12日(実際は2年後、3回忌に当たる日)、諏訪湖に甲冑(かっちゅう)をつけて沈めよ」と。
「その3年の間、自分の死を隠し、国の安全を保て。自分と骨相がよく似た逍遥軒(しょうようけん、信廉[のぶかど]・信玄の同母弟)を影武者に経てて甲府に向かわせ、病気の予が帰還したように見せかけるのだ」
とも命じた。
また、信玄は万一を考え、長櫃(ながびつ)に武田家の家印である竜印判を押した白紙800枚余りを用意していた。死後、これを諸国から来た書状の返信に使い、信玄が健在であるかの如く見せかけよとも下知(げち)した。
さらに、自分を継ぐ者は孫で7歳の信勝(のぶかつ)だが、まだ幼い。その間、父の四郎勝頼(しろうかつより)が陣代(じんだい、後見役のこと)をつとめ、信勝が16歳になったときに家督につけて欲しい。(続く)