人前で「マスク」をしないことが汚いとさえ感じてしまうようになってしまった感覚の変化と絶望感【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の教え 第18回
人を傷つけてはいけないのかがわからない少年。自傷行為がやめられない少年。いつも流し台の狭い縁に“止まっている”おじさん。50年以上入院しているおじさん。「うるさいから」と薬を投与されて眠る青年。泥のようなコーヒー。監視される中で浴びるシャワー。葛藤する看護師。向き合ってくれた主治医。「あなたはありのままでいいんですよ」と語ってきた牧師がありのまま生きられない人たちと過ごした閉鎖病棟での2ヶ月を綴った著書『牧師、閉鎖病棟に入る。』が話題の著者・沼田和也氏。ところでいま彼は次のように語る。「マスク着用ルールなど、まだ二年も経っていない。ところがわたしは、今やマスクをしないで人前に出ることができない。というよりも、マスクをしないことが汚いとさえ感じてしまっている。」このわずか二年余りの状況の変化で、自分が感じる前提が大きく変わってしまったことに対して沼田牧師は戸惑い続けているのだ。いったいこれはどうしたことか?と。この感覚の前提を共有している人は、いままさに多いのではないか? ある意味、この感覚に対する絶望感を沼田牧師とともに自分にもと問うてみたくなる・・・
おととしのいつごろからマスクを手放せなくなったのだろう。スマートフォンに保存されている写真を見る限り、年明け早々はまだマスクなしで人と会っていたことが分かる。どこに行くときでもマスクをつけるようになったのは、やはり3月の緊急事態宣言からだろうか。4月の写真では、もう写真のなかの人々はマスクをつけていた。
考えてみれば不思議なものだ。マスクをつけ始めて、まだ三年も経っていない。だが、はるか昔からマスクをつけた生活をし続けてきたように感じる。今やマスクなしの生活は想像しがたい。電車やバスに乗っても、マスクをしていない人はいない。たまに外食をしても、食前食後にはほとんどの人がマスクをつけている。そもそも、店内に入ってくる際にマスクなしの人は一人もいない。飲食店に限らず、たぶんほぼすべての店舗が、マスクなしの入店をお断りしているだろう。
飛沫がどれくらい飛ぶのかという特殊映像も、おととしの年末から去年の春にかけて、テレビでさかんに放送されたものだ。ああいう映像を繰り返し見てしまうと、たとえば家のなかで、マスクなしで妻と話しているだけでも、ふとした折に「ああ今、すごく唾が飛んでいるんだろうな」と、なんだか汚いような気がしてくることがある。毎日洗濯するわけではない上着なんか、襟もとは唾だらけなんじゃないだろうかと考えてしまうのだ。夕飯時に配膳をしながら喋ることが、皿に唾を飛ばすようで嫌になった。わたしにとって、飛沫の映像はそれくらいインパクトがあった。
そういうわけで、マスク以外にも手洗いや消毒、ソーシャルディスタンスなど、これらもろもろのルールはわたしにとって、もはやたんなるルールではなくなってしまった。ありありと感じられる不潔感から身を護るため、自発的に守らずにはおれない宗教的戒律のようなものになってしまったのである。会話をするとき、かつてはお互いあんなに無邪気に顔を近づけあって、マスクもせずに唾を飛ばしあっていたのが信じられない。果たして、わたしはマスクなしの生活に戻ることができるのだろうか。たいして清潔好きでもなかったくせに、みょうなところで神経質になったものだ。
’それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」 ‘マルコによる福音書 7:14-15,17-23 新共同訳
食べ物は口から入って、うんちになって出ていくだけじゃないか。食べものに清いも汚いもないのだ。むしろ汚いものは人間の心から出てくるじゃないか────イエスはそういうことを言っている。その背景には、当時のユダヤ人の律法遵守がある。律法には食物規定もあるのだ。例えば、ひづめが二つに分かれていて、しかも反芻する動物。つまり牛や羊は食べてもいい。だが、ひづめがあっても反芻しない豚は、穢れた動物だから食べてはいけない。うろこがある魚は食べてもいいが、うろこがない蛸や烏賊などは穢れている。そういうルールを彼らは守っていたのである。イエスはこれに対して挑戦状を叩きつけたわけである。ルールを見かけ上守っているかどうかよりも、心を問題にしたのだ。
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