「ウクライナ危機」に形骸化した“平和主義”で対処しようとする護憲派リベラルの自爆行為【仲正昌樹】
こうした発想は、新型コロナ問題に対するリベラル派の姿勢にも通じているようにも思える。彼らにとって、「命を守ること(=コロナが原因で死なないこと)」が最優先で、そのためには営業の自由や移動の自由、家族などの私生活の自由など、憲法に規定されている基本的自由が制限されるのは当然だ。その結果として経済的に困窮する人が増え、自殺者や餓死者が出るかもしれないという問題は無視するか、与党の失策が原因だと主張し、「命を守ること」を最優先するよう政府に迫ってきた、自分たちに責任はないかのような態度を取る。
“リベラル”であれば、生命・自由・財産は各人のものだ、政府や知事たちが勝手に決めるのはおかしい、何を優先すべきかみんなで考えよう、と問題提起してしかるべきなのに、そういう発想がない。自分たちの意味で「命を守ること」が、万人にとって正しい、それに抗うものは、人間性に問題があるかのような態度を取り続けている。こういう頑なさ、一人よがりは、九条護憲派が長年培ってきた教条主義の産物かもしれない。
九条には、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 ② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と書かれている。これを文字通り読めば、確かに自衛隊の存在も、外国からの侵略に対して武力で抵抗することも、違憲であろう。しかし、憲法学者の長谷部恭男氏は、アメリカの法哲学者ドゥウォーキンの議論を援用して、憲法を含む法律に銘記されている法規範には、スポーツのルールのようにアウトかセーフかはっきり決まる「準則 rule」と、理想として目指すべき方向性を示す「原理 principle」があることを指摘し、九条の文言を、絶対に「準則」として受け止める必要はあるのか、という問題を提起している。この点については、憲法学者の間でも意見の分かれるところだろうが、憲法の前文と合わせて読むと、「原理」としての性格が強いのではないかと思えてくる。
「前文」では、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」、と謳われている。
これが九条の前提になっているとすれば、少なくとも、他国の裏切り――一九九四年のブダペスト覚書では、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの三国が核を放棄することと引き換えに、米、英、ロシアがこれらの国に安全保障を提供することが取り決められた――という形で侵略を受け、「専制と隷従、圧迫と偏狭」に必死に抵抗している、現在のウクライナのような状態にある人々の戦闘行動に、日本は一切関与してはならない、戦闘している相手側からそう思われかねない政策を取るべきではない、というようなことにはならないはずだ。