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函館の戦争遺跡をめぐる旅へ出よう

新幹線開通でさらに近くなる函館のもうひとつの歴史

いよいよ間近に迫った、北海道新幹線の開業。
これにより、北海道、とりわけ函館はますます行きやすい場所になります。ここでは、函館観光の定番スポット函館山の知られざる歴史と見どころを紹介します。

千畳敷砲台そばの高所にある戦闘指揮所

ロシア艦隊から函館を守った要塞

 「百万ドルの夜景」といわれ、常に観光客で賑わう標高334mの函館山。
この人気スポットが終戦まで一般人は近づくことのできない、秘密のベールに包まれた要塞地帯であったことは、いまでは想像がつきにくい。
 函館要塞は明治29 (1896)年に建設が計画された。日清戦争後に高まっていたロシアの脅威から本州と北海道を結ぶ生命線の函館港を防衛することが目的で、万が一敵が上陸した場合に備えて保塁も備えられた。他の要塞のほとんどが軍港を守るためだったのに対し、函館が民間の港であることをみても、交通の要衝としての重要さが分かるというものだ。
 要塞は当時の最新技術を投入して明治35 (1902)年にほぼ完成した。その2年後に日露戦争が始まると、さっそくロシア海軍のウラジオストク艦隊が津軽海峡周辺で通商破壊戦を展開し始める。これを聞いた函館市民の間では、街が砲撃されるという噂が広まり大混乱になった。旭川の連隊が出動して鎮めるほどだったというから、不安の大きさがうかがい知れる。
 また7月には2度にわたり津軽海峡を横断されたが、要塞から砲撃はなく「目前を悠然と航行する敵艦をなぜ砲撃しないのか」と、人々の間から不満の声が上がった。
 これには6月に起こった常陸丸事件も影響しているのだろう。この事件では、陸軍の輸送船常陸丸を含む3隻が、ウラジオストク艦隊の砲撃を受け遭難。イギリス人3名を含む、1000名を超える犠牲者を出した。周辺海域の警備を任務としていた日本海軍の第二艦隊が、ウラジオストク艦隊を取り逃がしたことで第二艦隊に批判が集中し国民は激昂していたのだった。
 もっとも、ロシア海軍の津軽海峡横断に対する住民の反応は、軍事知識の乏しい当時の民衆が、要塞の存在理由をまったく理解していなかったゆえのエピソードといえる。函館要塞の大砲の射程が函館湾をカバーする7800mしかなく、威嚇で砲撃する必要もなかっただけのこと。函館港の防衛という要塞の目的からすれば当然だった。
 ロシア側も港に近寄らず、射程を見極めて通過していた。ロシア艦を港に近寄らせず艦砲射撃や侵入を完全に阻止できたわけであるから、要塞としての役割は十分に果たしたのだ。

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飯田 則夫

いいだ のりお

昭和37(1962)年、茨城県生まれ。大学卒業後、システムエンジニア、編集プロダクション勤務などを経て、フリーランスライターとして独立。「予科練」など旧海軍航空隊が身近な環境で育ったことから、近代日本の足跡を知る歴史素材として、学生時代より旧軍史跡に興味を持ち、各地を探索してきた。

著書に『図説 日本の軍事遺跡』(ふくろうの本)、『TOKYO軍事遺跡』(交通新聞社)、『大日本帝国の戦争遺跡』(KKベストセラーズ)などがある。


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