函館の戦争遺跡をめぐる旅へ出よう
新幹線開通でさらに近くなる函館のもうひとつの歴史
貴重な明治時代の土木遺産となった要塞跡
膨大な費用と年月を費やしてつくられ、日露戦争で抑止力として機能した函館要塞は、日本の国力が増して防衛主体から外征に転向したことや、兵器の進歩などから不要となった。
大正5(1916)年には御殿山第一砲台と薬師山砲台が廃止され、他の砲台からも多くの備砲が撤去された。昭和2(1927)年には函館要塞地帯は津軽要塞地帯に含まれるようになり、大間崎砲台と汐首岬(しおくびみさき)砲台で海峡の東側を、白神岬砲台と竜飛崎(たっぴざき)砲台で西側をカバーするネットワークが昭和15(1940)年に完成。これにより、函館要塞ではできなかった海峡封鎖が可能となった。
とはいえ、太平洋戦争中の函館山の備砲は、御殿山第ニ砲台と千畳敷砲台に28cm榴弾砲が6門、立待堡塁に45式15cm加農砲1門という内容だった。旧式の火砲が演習用にあっただけですでに重要性は失われており、要塞地帯としての立ち入り制限もほとんど意味がなくなっていた。
函館山は終戦の翌年、半世紀ぶりに一般開放されて手つかずの自然が豊かに残る市民憩いの場となった。最近では土木学会選奨土木遺産や北海道遺産などに選ばれるなど、築城から一世紀を経て明治時代の最新技術を集めた土木遺産として認知されるようになった。
御殿山第一砲台跡につくられたロープウェイ山頂駅を起点に、多くが要塞時代の軍道と重なっているハイキングコースを歩いて、点在する砲台の跡を難なく辿ることができる。
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