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古都VS軍都 金沢の数奇な歴史をめぐる旅

「加賀百万石」だけじゃない!城下町に花開いた軍都の光芒

「軍都」として復活した金沢

県立歴史博物館が創建当初の姿に復元して使用する旧兵器支廠兵器庫

 加賀百万石と謳われる金沢は、風情ある町並みと工芸や芸能など伝統文化が息づく歴史ある城下町。第一級の観光都市が持っていた大きな弱みは、東京からのアクセスが悪いことだった。それが平成27(2015)年3月に北陸新幹線が開通して解決、人気に弾みが付いたのは記憶に新しい。
 奇しくも、金沢にはかつて似たような再興の歴史があった。それは百年ほど前、明治中頃のことだった。江戸時代には徳川将軍家に次ぐ大藩が治め、明治維新のときには日本第5位の人口であったのに、廃藩後は交通の不便さなどから人口の減少が止まらなかった。
 時代の波に乗れず、日本の近代化から取り残されたつつあったこの時期、増設される陸軍師団を金沢に迎える話が持ち上がる。軍事拠点を鉄道で結ぶことも計画され、第八師団の予定地だった弘前に通じる奥羽線とともに、北陸線が優先して着工された。
 ロシア海軍の艦砲射撃を避けて内陸に進路を選び、滋賀県米原から延びてきた北陸線は明治31(1898)年4月に金沢まで開通し、同じ年の11月に第九師団が設置された。
 鉄道とともに北陸3県の4歩兵連隊をまとめる師団司令部ができたことで、師団の将兵とその家族2万人以上が住むことになり、「軍都」として復活を遂げた。

金沢の郷土部隊「歩兵第七聯隊」

 金沢城址には、師団司令部と旅団司令部、歩兵第七連隊の兵舎、被服庫、雪中演習所などが並んで壮観な眺めとなった。なかには藩政時代の建物を流用したものもあり、三十間長屋や鶴丸倉庫、石川門などは手厚く保存されているので、現在でもよい状態で見ることができる。
 郊外には金沢のもう一つの歩兵連隊、騎兵、野戦砲兵、輜重兵などの部隊が置かれた。
 ちなみに、これら部隊のなかで歩兵第七連隊は師団よりずっと早い明治8(1875)年から城内に置かれている。そのため、当時の金沢の人たちにもっとも馴染み深かった郷土部隊といえるだろう。
 この連隊にゆかりのある興味深い人物を3人ほど挙げておきたい。
 まず昭和5(1930)年に入営し、連隊内で赤化事件を起こしたプロレタリア川柳作家・鶴彬(つるあきら)。彼の悲惨な生涯をたどると、地方都市でさえ治安維持法により息苦しくなっていた当時の世相や軍隊の実態がよく分かる。
 もう一人は、元金沢藩士で歩兵少佐の千田登文(せんだのりふみ)。西南戦争で自刃した西郷隆盛の首を見つけたことが、最近発見された履歴書で裏付けられ話題になった。乃木希典や今村均とも深い縁があったというのもおもしろい。
 そして日露戦争の際、ヨーロッパで諜報活動を行った明石元二郎《あかしもとじろう》。9ヶ月ほどだが第13代の連隊長を務め、後に台湾総督となった。大正8年(1919年)に没したが、生前からの強い遺志で遺体は台湾に葬られた。金沢出身者には水利事業で台湾に貢献した八田與一(はったよいち)がおり、偶然だが彼のもっとも大きな業績である台湾の水利工事「嘉南大圳(かなんたいしゅう)」の工事を後押ししたのが明石総督だった。

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飯田 則夫

いいだ のりお

昭和37(1962)年、茨城県生まれ。大学卒業後、システムエンジニア、編集プロダクション勤務などを経て、フリーランスライターとして独立。「予科練」など旧海軍航空隊が身近な環境で育ったことから、近代日本の足跡を知る歴史素材として、学生時代より旧軍史跡に興味を持ち、各地を探索してきた。

著書に『図説 日本の軍事遺跡』(ふくろうの本)、『TOKYO軍事遺跡』(交通新聞社)、『大日本帝国の戦争遺跡』(KKベストセラーズ)などがある。


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