新選組誕生の裏にあった近藤勇の苦悩
近藤勇の苛烈なる生涯 第2回
愚直なまでに己の信念を貫き、動乱の幕末を誰よりも武士らしく生き抜いた近藤勇。
壬生狼と恐れられた新選組局長としての顔と、その裏に隠された素顔に迫る!
浪士組にはこれをちがう政治目的に利用しよう、と考えるグループがいた。清河八郎一派である。清河は尊王攘夷論を唱える志士で、京都に着いたら浪士隊をそっくり攘夷実行の天皇軍に切りかえようと考えていた。京都の壬生に宿坊を与えられるとすぐ、清河はこのことを宣言した。近藤は反対した。その理由は、
・われわれの責務は将軍の警護だ
・その将軍はまだ京都に着いていない
・われわれはそのために幕府から報酬を得ている
・清河の主張は幕府の目的に対する裏切りになる
というものだ。
大半が清河に同調していた浪士たちは「近藤たち(試衛館一門)こそ裏切者だ」と乱闘になりかけたが、幕府から監察役として派遣されていた山岡鉄太郎が割ってはいり、清河組は初志貫徹(攘夷実行)、近藤組も初志貫徹(将軍警護)と分けた。山岡は思想では清河に共鳴し、理屈では近藤を正しいと判断したのだ。かれも幕臣だったからである。
近藤の誠実さは在洛幕府要路で話題になった。京都守護職を務める会津藩主松平容保は、つねに「武士の誠忠」を会津精神として重んじていた。近藤のうわさをきいて、近藤たち浪士組を「守護職預かりの特別警察隊」にすることにした。任務は皇居の警護と京都市中の治安維持だ。
近藤は組織をととのえ、隊士を募集した。前歴は問わない。武士・農民・職人・商人・僧など多彩な人間が採用された。近藤はこれらをすべて武士としてランクし、「そのかわり武士にあるまじき行為をした時は、断固処分する」ときびしく達した。武士への一律身分向上は、それだけの責任も負えと命じたのだ。近藤は人間行為のなかでなによりも「誠実さ」を重んじた。「誠」の一字は隊のCI(組織の特徴)となり、目標となった。
京都では次々と政治事件が起こり、浪士組もその都度動員された。文久3年(1863)8月18日のクーデター「八・一八の政変」では、御所内に陣取った近藤たちの活躍ぶりに公家たちも感動し、至上(天皇)からの達しだということで、
「今後、新選(撰)組と名乗るように」
と命ぜられた。事実なら隊名の命名者は天皇だということになる。このころの京都は“暗殺の季節”で、とくに過激な攘夷派の行動は目に余った。池田屋事件はその集約で、新選組はこの制圧で一挙に名を上げた。“人斬り”“壬生の狼”という悪名も高めた。近藤は考え込んだ。
「京都市民の安定生活を守るために過激派を制圧したのに、市民は必ずしもありがたがらない」
という、京都市民の複雑性と新選組のおかれている不安定な位置づけについてである。