「天岩屋戸事件」は卑弥呼の死を暗示する
天照大御神が卑弥呼であると言える理由 第9回
天岩屋戸から出てきたのは卑弥呼ではない
前回、天岩屋戸事件以前の天照大御神の行動については『古事記』でも『日本書紀』でも変わりがないということを説明した。
ところが、天岩屋戸から出てきた後においては、次のようになっている(表とグラフ参照)。
①『古事記』では、天照大御神は、大半の場合、高御産巣日神(たかみむすびのかみ、高木神ともいう)と連名で、他の神々に命令などを下している。天照大御神は、高御産巣日神とペアで行動し、高天原を主宰している。ときには、高御産巣日神だけが、天照大神をさしおいた形で、最高主権者的な行動をとっている。
②『日本書紀』の本文では、天岩屋戸以前と後とで、さらにはっきりと、一線を画しているようである。天岩屋戸の後、すべての命令などは、高御産巣日神(『日本書紀』では、「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」と記している)ただ一人の名によって行われている。あたかも、天岩屋戸の事件以前においては、天照大御神が高天原の主権者であり、天岩屋戸から後においては、高御産巣日神が高天原の主権者であるかのような取り扱いである。
和辻哲郎は、天岩屋戸に隠れる以前の天照大御神を卑弥呼になぞらえ、天岩屋戸から出てきたのちの天照大御神を、『魏志倭人伝』にみえる台与(卑弥呼の一族の女性で、卑弥呼のあとで女王となった)に、なぞらえている。
天岩屋戸から出てきた後の天照大御神は、やはり卑弥呼ではなく、台与であり、それは日本神話では、天照大御神のあとをついだ天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の妻となった万幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひひめのみこと)のことであろう(「台与(とよ)」と「豊(とよ)」の一致に注目)。万幡豊秋津師比売命は、高御産巣日神の娘である。
『魏志倭人伝』は、台与は13歳で王になった、と記す。そのさいの後見人が、父の高御産巣神で、台与は成人して天忍穂耳命の妻となり、その間に生まれた邇邇芸命(ににぎのみこと)が、皇室の祖先となったのだ。
すなわち、「天岩屋戸事件」は卑弥呼の死を暗示しており、その卑弥呼が神話化した存在が天照大御神、つまり「卑弥呼=天照大御神」と考えるのがもっとも自然と言えるだろう。