信玄の遺体と埋葬に秘められた謎とは?
武田信玄の遺言状 第8回
覇王信長が最も恐れた武将・武田信玄。将軍足利義昭の求めに応じて上洛の軍を起こすが、その途上病に冒され、死の床につく。戦国きっての名将が、武田家の行く末を案じて遺した遺言には、乱世を生き抜く知恵が隠されていた――。
信玄は駒場(こまんば)に死んだ。信玄の遺体はこの地で荼毘(だび)に付された伝承があるが、実際は甲府に運ばれ、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の東南500メートルの岩窪の地に留められた。
ここには正室三条夫人の眠る円光院(えんこういん)がある。実は信玄の遺体は同寺に入ろうとしたが、正室の子ではない勝頼が阻んだため、棺(ひつぎ)はやむなく円光院参道下の土屋右衛門尉昌次(うえもんのじょうまさつぐ)の屋敷に安置されたともいう。ここで喪明けに火葬され、その跡地に建った古塚は魔縁塚(まえんづか)と呼ばれた。
また、諏訪湖(すわこ)を一望する岡谷の小坂観音院(おさかかんのんいん)の麓より沖に漕ぎ出た舟から、信玄の石棺が湖底に沈められた伝説もある。
だが、それらは謎として残る。明らかなのは3回忌の天正3年(1575)4月12日に、塩山の恵林寺(えりんじ)と躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)で3年喪明けの大法要を執り行ったこと。そして翌年4月、恵林寺で勝頼も列席して盛大な葬儀が催された。
時に葬儀の前日、春日弾正忠(かすがだんじょうのちゅう)ら3人の重臣が、信玄を納めた塗籠(ぬりごめ)をあけると、生前さながらの姿で壺の中に坐していたとされ、遺体は恵林寺に埋葬されたことになっている。(続く)