「楽に学べる」本ブームと陰謀論【仲正昌樹】
『独学大全』をはじめ『独学の技法』『独学勉強法』など、「独学の薦め」を謳った本が近年出版され話題となっている。その背景には「学び直し」といったブームもあるようだ。ところが一方で、「独学」が自分の主張の「正しさ」を補強するための手段になっていないだろうか? それによって、自分の考え方に疑いを持たなくなってしまってはいないか? もしそうだとしたら、勉強の目的そのものをはき違えてしまっている、もしくは学びの基本を知らないがゆえの「独学の弊害」ではないか? 最新刊『〈知〉の取扱説明書』で仲正昌樹氏は、「タメになる『知』/ダメになる『痴』の見破り方」を公開し、学びの基本を指南した。なぜ「独学」は危ないのか? 近年の“知”のトレンドから見える間違った勉強の弊害について警鐘を鳴らす。
近年、書店に行くと、二つの“知”のトレンドが目に付く。一つは、「〇〇分で▽▽のエッセンスが理解できる」とか、「これ一冊で◇◇のメソッドが身に付く」「寝ながら◆◆を学べる」といった、カンタンに学べる系のもの。その最近の“進化形”に、「独学の薦め」がある。もう一つは、アメリカの影の支配者であるディープ・ステイトによるトランプ失脚の真相、プーチンをはめたゼレンスキーとアゾフ大隊の真実…のような陰謀論系のものである。いずれも、中高年の、自分では意識がタカイつもりの人たちに人気があるようだ。
私は、この手の本や同じような趣向のネット上の情報サイトのほとんどは、現代日本における「知」ではなく、「痴」の象徴だと思っている。人間そう簡単に賢くなれるわけではないし、“その道のプロだけが知っている正確な情報”を特別に苦労しないで入手できるわけがない。それが分かっていて気休めに読んでいる分にはいいが、いい歳してそれらを妄信しているとしたら恥ずべきことである。
どうして、この二つが流行るのか。理由は簡単だ。人間年を取ってくると、周囲から「ひとかどの人物」として承認されたくなる。しかし、人格、名声、地位などによって自然と承認される人はごく少数だ。そこで、自分が本当はすぐれていることをアピールしたくなる。
昔なら、下手に頑張っても誰も相手にしてくれないので、ふてくされているしかなかったが、現代は、“知識人として情報発信した”気にしてくれるネットというおもちゃがある。どこかの知識人の本やサイトで目にした“知識”をちゃんと理解したかどうか自分でも分からないまま、コピペする。そのコピペを他の人たちがRTしたり、イイネを付けてくれたりすると、自分も知識人になったつもりになれる。
カンタンに学べる系の本は、そうした安易な知識人ごっこにお墨付きを与えてくれる。その手の本を一応買っておくと、■■先生流のメソッドに従って、きちんとした「知識」を身に付けたことを証明できるような気になれる。論破術とかディベート術のようなものは、普段やっているコピペ⇔ネット論争に直結していて、免許皆伝した気分になれる。情報収集・整理系の本が手元にあると、本当に自分がその情報を理解して、使いこなせたか確認しないでも分かった気になれる。国際情勢や日本の政治はこれ一冊で大丈夫とか、「▼▼による時事問題超解説」とかを読むと、“基本が身に付いた”ことになり、堂々と(取捨選択して)コピペできる気がしてくる。
そうやって“論客”になったつもりで、とにかく目立とうとしてところかまわず暴れ回っている不心得者は、カンタンに学べる系の本の読者のごく一部だろうが、この手の人たちは、受験の神様に頼っている高校生・浪人生以下である。受験で必死の高校生・浪人生は、合格するという具体的な目的のために、カンタンに教えてくれる先生にすがっているにすぎないが、論客ぶったおじさん・おばさんたちは、とにかく誰かに認められたいという漠然とした欲求に動かされ、多くの人に喧嘩を吹っ掛け、迷惑をかける。