弥生時代の人もコメを炊いて食べていた
邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第3回
出土遺物から解明された
食材、調理法、栄養価
この時期を象徴する食料として、コメが挙げられる。春から秋に作業が集中するコメの栽培は縄文時代までの活動サイクルを大きく変え、栄養面だけでは量れない影響を生活におよぼした。
当時の生産力は高くなかったという意見もあるが、中期以降の西日本の平野部では1日に必要なカロリーの半分程度は十分に満たしていたという試算がなりたつ。それを裏付けるように、鍬(くわ)や石庖丁(いしぼうちょう)といった農具に加えて、コメや水田そのものの発見も各地で増加している。
加えて、ムギ類、ヒエ、アワ、マメ類といった畑で栽培される作物や縄文時代から食されたクリ・ドングリも重要であった。こうしたバラエティー豊かな食料により、洪水や冷害などの自然災害によるコメの不作をカバーできた。
『魏志』倭人伝には漁撈(ぎょろう)に関する記述が多い。海人(あま)のような潜水漁が盛んであったことが紹介され、実際に石に張り付いたアワビをはがす骨製のヘラ(アワビおこし)が海岸の遺跡から出土している。瀬戸内海沿岸を中心にタコツボもみられる。内陸の遺跡からもサカナの骨が出土することから、海産物が広い範囲に流通していたことがわかる。
また、倭人伝には「牛馬なし」と記されるが、家畜のブタの存在が明らかになった。ブタは野生動物のイノシシと生物学的に同じ種であるが、餌が与えられることによって、頭骨や歯に違いがみられ、歯槽膿漏が増える。発見された骨にこうした特徴がみられることや、若い個体が多いという年齢構成から家畜のブタが飼育されていたことがわかる。
イヌも猟犬としてだけでなく、食用にもされた。長崎県壱岐(いき)の原(はる)の辻(つじ)遺跡は一支(いき)国の中心集落であるが、肉を取るため解体された骨が大量に出土している。
近年では、実験考古学や理化学的分析により、何を食べていたのかだけでなく、どのように、どれくらい食べていたのかまで解明できるようになってきた。
例えば、復原した土器でさまざまな調理法を試してみて、土器に残ったススやコゲの痕跡と出土品を比較して、当時の調理方法が推測されている。弥生時代はコメを蒸して食べたのではなく、現在と同じように炊いて食べることが一般的であったことがわかった。倭人伝にあるように、これを高坏(たかつき)に盛って、手で食べた。
また、古人骨に残るタンパク質(コラーゲン)の炭素と窒素の同位体(アイソトープ)の比率を分析することで、植物、陸上動物、海産物に由来する食料をどのようなバランスで食べていたかがわかるようになった。この手法を用いて、北部九州の弥生人がコメを含む植物質食料で8割近いカロリーを満たしていた結果が得られている。
《邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第4回へつづく》