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弥生時代の人もコメを炊いて食べていた

邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第3回

弥生時代の終わり、乱れる倭国を救ったのは女王卑弥呼だった。大陸から稲作と金属器が伝来した弥生時代、人々の暮らしは激変。稲作農耕を中心とした集落は、やがて「国」へと発展していった。王が誕生し、世は乱れて武器を用いたはげしい戦いもまき起こる。そんな激動の時代の人々の暮らしぶりを詳解する。

農業で得ていたのはコメ、アワ、キビ、ムギ、アズキ、ダイズ、ソラマメなど。水田で栽培されるコメが重要であったが、畑で栽培されるムギ類、アワ、ヒエ、豆類などの雑穀もよく食卓にのぼった。

出土遺物から解明された
食材、調理法、栄養価 

 この時期を象徴する食料として、コメが挙げられる。春から秋に作業が集中するコメの栽培は縄文時代までの活動サイクルを大きく変え、栄養面だけでは量れない影響を生活におよぼした。 

 当時の生産力は高くなかったという意見もあるが、中期以降の西日本の平野部では1日に必要なカロリーの半分程度は十分に満たしていたという試算がなりたつ。それを裏付けるように、鍬(くわ)や石庖丁(いしぼうちょう)といった農具に加えて、コメや水田そのものの発見も各地で増加している。 

 加えて、ムギ類、ヒエ、アワ、マメ類といった畑で栽培される作物や縄文時代から食されたクリ・ドングリも重要であった。こうしたバラエティー豊かな食料により、洪水や冷害などの自然災害によるコメの不作をカバーできた。

クリ、ドングリは縄文時代からの伝統食だが、弥生時代になっても各地から出土している。コメの不作をカバーするものとして重要だった。

 『魏志』倭人伝には漁撈(ぎょろう)に関する記述が多い。海人(あま)のような潜水漁が盛んであったことが紹介され、実際に石に張り付いたアワビをはがす骨製のヘラ(アワビおこし)が海岸の遺跡から出土している。瀬戸内海沿岸を中心にタコツボもみられる。内陸の遺跡からもサカナの骨が出土することから、海産物が広い範囲に流通していたことがわかる。 
 

漁でとっていたのはカキやアサリ、ハマグリ、タイ、サワラ、スズキ、コイ、フナなど。海に近い集落だけでなく内陸の遺跡でも、貴重なタンパク源として魚介類が食された。貝類は分解せず貝塚を形成して出土することもある。

 また、倭人伝には「牛馬なし」と記されるが、家畜のブタの存在が明らかになった。ブタは野生動物のイノシシと生物学的に同じ種であるが、餌が与えられることによって、頭骨や歯に違いがみられ、歯槽膿漏が増える。発見された骨にこうした特徴がみられることや、若い個体が多いという年齢構成から家畜のブタが飼育されていたことがわかる。 

 イヌも猟犬としてだけでなく、食用にもされた。長崎県壱岐(いき)の原(はる)の辻(つじ)遺跡は一支(いき)国の中心集落であるが、肉を取るため解体された骨が大量に出土している。 

狩猟ではイノシシ、シカ、野鳥などを獲物としていた。猟犬を使って弓矢でイノシシを狩る絵が銅鐸に見られる。家畜のブタの飼育も導入された。

 近年では、実験考古学や理化学的分析により、何を食べていたのかだけでなく、どのように、どれくらい食べていたのかまで解明できるようになってきた。 

 例えば、復原した土器でさまざまな調理法を試してみて、土器に残ったススやコゲの痕跡と出土品を比較して、当時の調理方法が推測されている。弥生時代はコメを蒸して食べたのではなく、現在と同じように炊いて食べることが一般的であったことがわかった。倭人伝にあるように、これを高坏(たかつき)に盛って、手で食べた。 

 また、古人骨に残るタンパク質(コラーゲン)の炭素と窒素の同位体(アイソトープ)の比率を分析することで、植物、陸上動物、海産物に由来する食料をどのようなバランスで食べていたかがわかるようになった。この手法を用いて、北部九州の弥生人がコメを含む植物質食料で8割近いカロリーを満たしていた結果が得られている。

《邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第4回へつづく》

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黒崎 直

くろさき ただし

大阪府立弥生文化博物館館長。奈良国立文化財研究所、富山大学教授を経て現職。著書に『水洗トイレは古代にもあった』(吉川弘文館)など。大阪府立弥生文化博物館は全国で唯一、弥生文化全般を広く対象とする博物館。「目で見る弥生文化」と池上曽根遺跡出土品を中心とした「池上曽根ワールド」で構成される。


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