男性は顔や体にイレズミを入れていた?
邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第4回
男女ともに装飾品を身につけた
倭人の身だしなみ
『魏志』倭人伝に、「道で偉い人に会えば、目下のものが道を譲る」との記述がある。倭国では外見により身分の上下が明示される社会であったと判断できる。
弥生時代には衣服に大きな変革があった。縄文時代は編んだ布しかなかったといわれているが、布を「織る」機(はた)が出現したのである。当時の機では肩幅よりも広い布を織ることができず、幅は30数㎝程度であった。そのため、1着の服を作るのに縫い合わせる必要があった。縫わない部分に頭を通すことになり、あたかも大きな布の中央に穴を開けたような「貫頭衣(かんとうい)」にみえたのだろう。素材はアサやカラムシ、コウゾなどの植物繊維で、絹糸は北部九州でのみ確認されている。
髪型を推測するのは難しい。人をかたどった土製品にモヒカン頭のようなものがあり、髷(まげ)を結った表現だろう。また、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓(かめかんぼ)から、頭のわきに束ねた髪の痕跡が残る人骨がみつかっている。古墳時代の人物埴輪(はにわ)のようなみずらがすでにあったこととなる。
権力者の身を飾るアクセサリーはヒスイ・碧玉(へきぎょく)などの宝石、ゴホウラ・イモガイなどの南海産の大型貝、青銅やガラスなどの舶来品といった貴重な素材が使われた。視覚的にかれらの権威を高めることに役立ったはずである。
こうしたものはその美しさだけでなく、長距離を運ばれ、製作に専門工人(こうじん)を必要とした点にも注意しなければならない。交易ルートを押さえ、工人を支配下に置く権力者の姿がみえてくる。完成品を再分配することで支配権の強化に結びつけたはずだ。
庶民はより入手の容易な石・木・貝で身を飾っていた。珍しいものとしては山口県土井ヶ浜(どいがはま)遺跡の貝製指輪がある。集団墓地に埋葬された女性の指に装着した状態で出土した。
また倭人伝は、倭人の習俗としてイレズミに注目する。中国南部との共通性を指摘し、水難をさけるためのまじないから装飾に発展したと述べる。イレズミは縄文時代からあったが、男性に限定されるのが弥生時代以降の特徴である。世界のさまざまな民族例から、通過儀礼としての意味もあったと考えられる。人形土製品や土器に描かれた人物の顔面にイレズミの沈線が表現されたものが多数出土している。目・口の周りや頬に入れていたようだ。
倭人伝には地域や身分により違いがあったとも記される。一方で、近畿ではイレズミの表現をもつ出土品がほとんどみられない。中国中原(ちゅうげん)ではイレズミは刑罰としておこなわれ、地方の野蛮な習俗と考えていた。近畿ではこのとらえ方を受け入れ、イレズミを入れなかったと考える研究者もいる。
《邪馬台国時代の生活を徹底解明! 第5回へつづく》