持ち運べる発泡スチロールの家で移住する暮らし
現在観測 第24回
こんな生活をしているのによく結婚できたなと言われる。最初は妻の両親もとまどっていたと思うけど、僕が参加している展覧会に来てくれたり、僕の話を聞いてるうちに、幸いなことに「大丈夫そうだ」と感じてくれたのだと思う。結婚して早々に別居状態だけど、妻も妻で松本で自分のお店を始めるための準備で忙しくしていて、別居だからどうのこうの言っている暇がない。
お金はどうしてるのかとよく聞かれるけど、最近は幸いなことに絵本を出版させてもらったり、芸術祭や展覧会に参加させてもらったり、僕の作品(家のドローイング作品がある)を買ってくれる人がいたりして、なんとかなっている。でもいつまでなんとかなるかはわからない。お金がなくなったら、バイトでもなんでもしようと思っているけど、ネットで見るニュースなどはとにかく「将来への不安」を煽ってくるので、それを受け続けると不安のループに陥ることもある。でも自分の将来以上に、この社会という船の行き先が不安になることがある。なので自分がやるべきだと思ったことをやっていくことにしている。
家αに住むことになった経緯を書いてみることにする。僕は2011年3月に東京の美術大学を卒業した。どうしても就職する気になれず、バイトをしながらでも芸術活動を続けようと思い、アトリエとしても使える物件を友達3人と探していたら、浅草にあるビルを格安で借りられることになり、そこを自分たちで改装して住むことにした。その物件の契約日が3月11日だった。物件の鍵を付け替える手続きをしているときに突然地面が揺れだした。そのビルにはテレビがなかったので、僕は主にツイッターを見て情報を仕入れていた。当時はツイッターをみていると気分が高揚した。連日原発事故や津波の被災地関連のニュースが、テンションの高いコメントと共に流れてきた。その頃はツイッターをみると「この震災から日本は変わる」というようなことが言われていた。僕も「ここから日本が変わるのか」と思いながらペンキを塗ったりしていた。
震災からしばらく経ち福島の原発事故は泥沼化し、みんながその状態に慣れてきたころ僕も浅草での生活に慣れていた。放射能がこわいので水道水を飲むのは嫌だけど、飲料水を毎回買えるほどお金もないので、しかたなく水道水も飲んでいた。そういう生活をしながら制作活動をして、時々バイトをしていた。震災からしばらく経っても日本が変わらないので「この国はあの震災でも変われないのか」と思った。でも漠然と「なんだかわからないけど、このままじゃ駄目だ」とも思うようになっていた。何が駄目なのかわからず辛かったので、余計なことを考えられないくらい忙しく働こうと思い、たくさんバイトをした。
野外にある飲食店のホールスタッフをしている時に決定的な出来事が起こった。店の開店準備をしているときのこと。その店には屋根がないので雨が降ると当然客は来ない。なので店は営業中止になるのだけど、大きな会社の末端の店舗だったので、現場だけですぐに「中止」という判断ができずに、会社の判断を待っているあいだ、雨が降るなか店の開店準備をすることになった。そして野外にあるテーブルを、雨が降るなか拭いた。当然、雨が降っているのでいくらテーブルを拭いても意味がない。だけど時給は発生している。この「おかしな時間」は何なんだろうと思った。この「おかしな時間」について考えているうちに、社会をまわしているシステムについて考えるようになってきた。
例えば夜行バスの脱線事故がたまに起こるけれど、あれは僕たち利用者が「より安く・より遠くへ」という欲望を際限無く強めているせいで、そのプレッシャーを受けてバス会社たちは競争し「より安く・より遠くへ」行くために現場に無茶な負荷がかかる運行スケジュールを組み、それに絶えられなくなった現場の人が事故を起こしてしまうということだと思う。つまり「なるべく安く移動しよう」と思って一番安いチケットを買っている僕自身にも責任の一端がある。そうやって社会は複雑に関係しあっている。福島の原子力発電所で作られていた電気も、僕は使っていた張本人だった。つまり「震災でもこの国は変われない」とか言ってる場合ではなく「国を背負って自分を変えるべき」なのだと思った。
僕たちは縄文時代に土器をたくさんつくった結果、荷物が多くなり定住化が進んだ。差別や格差も生まれた。僕たちは1万年かけてこの状態にすっかり慣れてしまった。この問題は無限に考えられることなので、気がついた人がそれぞれのやりかたで実践していけばこの社会も面白くなっていくと思う。
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