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役に立たなかった遺言「3年死を秘すべし」

武田信玄の遺言状 第9回

武田信玄像
 
覇王信長が最も恐れた武将・武田信玄。将軍足利義昭の求めに応じて上洛の軍を起こすが、その途上病に冒され、死の床につく。戦国きっての名将が、武田家の行く末を案じて遺した遺言には、乱世を生き抜く知恵が隠されていた――。

 

勝頼は3回忌の直後に長篠に出陣して1カ月後に信長・家康連合軍に大敗し、武田氏凋落の悲運の中で、信玄の葬儀を恵林寺(えりんじ、注)で営んだことになる。

それにしても「3年死を秘せ」との信玄の遺言は、まったく意味をなさなかった。信玄が死んだ直後から、家康も謙信も、確かな情報として、その死を知る。

家康は早くも翌月、駿河に侵攻し久能、駿府などを侵した。7月には東三河の長篠城を攻める。武田方だった東三河衆は続々徳川に寝返り、信玄が長養生した長篠城は家康に奪い返された。

勝頼は信玄の遺言を守って、領国の中に留まっていることは出来なかった。そこで信玄が隠居し、自分が家督を相続したことを、本願寺に知らせるなどの処置を講じ、翌年、積極策に出た。

東美濃に兵を進め、信長軍を撃退し、明知城(あけちじょう)などを奪った。また信玄さえ落とせなかった遠江(とおとうみ)の高天神城(たかてんじんじょう)も攻略した。(続く)

 

(注/信玄が再興した甲斐武田氏の菩提寺。天正10年、武田氏の滅亡後、織田軍によって焼き討ちされた。住職の快川紹喜は、燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と唱えながら一山の僧たちとともに焼死したという)

 

文/楠戸義昭(くすど よしあき)

1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。

 

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楠戸 義昭

くすど よしあき

1940年和歌山県生まれ。立教大学社会学部を卒業後、毎日新聞社に入社。学芸部編集員を経て歴史作家に。著書に『戦国武将名言録』『この一冊でよくわかる!女城主・井伊直虎』(以上PHP文庫)、『吉田松陰「人を動かす天才」の言葉』『坂本龍馬の手紙 歴史を変えた「この一行」』(以上三笠書房・知的生きかた文庫)、『山本八重』『文、花の生涯』『井伊直虎と戦国の女城主たち』(以上河出文庫)ほか多数。


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