「人は石垣、人は城……」信玄の名言の限界
武田信玄の遺言状 第10回
覇王信長が最も恐れた武将・武田信玄。将軍足利義昭の求めに応じて上洛の軍を起こすが、その途上病に冒され、死の床につく。戦国きっての名将が、武田家の行く末を案じて遺した遺言には、乱世を生き抜く知恵が隠されていた――。
勝頼は決して無能な後継ぎではなかった。すぐれた武将だった。だが、信長や家康が勝頼を放っておかなかった。長篠奪還が命取りとなって、信長の容赦ない鉄砲攻撃に、家臣たちが次々に倒され、有能な人材を失ったのだ。
時に、信玄の残した負の遺産がある。
「人は城
人は石垣
人は堀
情けは味方
あだは敵なり」
信玄の言葉として人口に膾炙(かいしゃ)される。だがそれは理想に過ぎない。強かった信玄は、自国の民に苦難を与えないために、戦いはいつも国の外でした。だから領内に強固な城を造らず、人材こそが大切だと主張した。
長篠で多くの家臣を失った勝頼に、それはあまりに厳しい現実だった。
主城の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は城の備えをしておらず、逃げ城である背後の要害山城は、城域がまことに小さく、鉄砲時代の城として非常に貧弱だった。あわてて新府城(しんぷじょう、注)を築くが、防御の城塞網はお粗末だった。(続く)
(注/織田の侵攻に備えて、天正9年(1581年)、家臣の真田昌幸へ普請を命じて築城した)