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頼まれたら断れない!? 上杉家の「義」の真相

ワニ文庫『愛と夜の日本史スキャンダル』より、戦国武将の知られざるスキャンダルをパパラッチ!

大河ドラマ「真田丸」で、真田家を始め、策をめぐらす戦国武将の中でも「癒し」担当で人気急上昇の上杉景勝。彼の養父であるかの上杉謙信はどうだったのか?

 

一生不犯でも跡取りは欲しい謙信の養子作戦

 

川中島合戦での上杉謙信と武田信玄をイメージした銅像。
 

 

大河に出てくる上杉景勝は、上杉謙信の養子です。謙信のやることは、家臣に理解できないほど、とにかく変わっていました。夜の方面でも謙信は変わり者でした。

なんとかして自分直系の血脈を伝えるのに必死だった戦国大名の中で「一生不犯」、つまり女性とのセックスレス宣言をしてしまった前代未聞の戦国武将なのです。

しかし、「それならば」と考えたのが、智恵者の上杉謙信による「養子政策」だったのか? セックスレス宣言した謙信が世継ぎを得るには、他家から養子をもらうしかなかったのです。

謙信には多くの養子がいました。
「関東一の美少年」こと上杉景虎や、影虎と抗争した上杉景勝もみんな、彼の養子で、他にも、何人か養子だったとされる男子はいるが、資料上、ハッキリとした数はわからないほど。美形を中心に、記録に残っただけでも三人以上の養子をもらっていたと言われています。

しかし、これも実は戦国では掟おきてやぶりの行為。のちの家督争いを避けるため、他家からの養子は、一人だけにするのが本来の筋なのです。実際、この謙信の奇妙な「養子趣味」のおかげで、越後には「御館の乱」が起きました。
大河内でも、景勝の口から「義」に生きる上杉家のモットーを象徴するのが謙信公であるとコメントされていましたが、少なくとも家庭問題に関していえば、謙信の言動に常々「義」があったかどうかは、不明とせざるを得ないのです。

 

鉄の絆はフィクション!?

 

こちらも大河で描かれましたが、謙信は誰かに頼み込まれると、ノーとは言えない義理に厚い男だったといわれています。

武田家との因縁の抗争である「川中島の戦い」も長年の付き合いがある村上家などから、援軍要請を受けて始まりました。しかし、謙信と上杉家家臣たちの温度差は大きく「なぜ見返りも満足に得られない村上家の戦に、当家が味方せねばならないのか」と、冷淡な家臣たちに謙信は失望。
第1次・第2次の「川中島の戦い」の数年後、謙信はなんと越後を出て行ってしまいます(当時27歳。古参の家臣からは「若造」扱いされたようですね)。

このときの彼の心情を記した置き手紙が『歴代古案』という古文書に収められており、ここには「皆見除之体(当家では、みんなの気持ちがバラバラだ)」などという、ため息交じりの謙信の本音が書かれています。

心の平安を求め、彼が向かったのは、一説に高野山とあります。
サボタージュする戦国大名というのは前代未聞ということで、困り切った家臣たちは謙信の後をついに追いかけてきました。しかしその後も謙信と家臣との折り合いは概おおむねよろしくなく、戦国史上で謙信ほど家臣に裏切られた回数の多い武将はいないといいます。上杉家の鉄の絆はあくまでフィクションだったのです。

なお、晩年の謙信に才能を見込まれ、低い身分出身だったにもかかわらず、寵愛を受けたという直江兼続も一次史料では性格が悪い人物だったそう。それくらいに自身も裏表があり、芝居もできる人物でなければ、機嫌がコロコロ変わる上杉謙信に調子を合わせるのは、難しかったのかもしれません。

ちなみに大河ドラマでも弁の立つ人物として描かれていますが、実際もそのとおりで、異様に無口だった景勝と周囲の潤滑油のような存在でした。上杉景勝とは仲がよかったのですが、後世にウワサされる男色関係については当時の史料からの実証はできません。

 

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堀江 宏樹

ほりえ ひろき

1977年生まれ。作家。大阪府出身。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒。大学在学中からフリーランスライターとして文筆活動を開始。日本史、世界史に関する著作、連載多数。著書に『女子のためのお江戸案内』(廣済堂出版)、『三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大坂新町』(幻冬舎新書)、『乙女の真田丸』(主婦と生活社)などがある。



 


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  • 2016.01.21