「自分の晩年を20代半ばに想定していた詩人・立原道造。日本の近代文学は結核によって発熱した」1939(昭和14)年とその前後【宝泉薫】
【連載:死の百年史1921-2020】第15回(作家・宝泉薫)
さて、堀に話を戻すと、やはり若い頃から結核を患っていたが、それでも戦後まで生き延びた。対照的に、その弟子でありながら、師より先に旅立ったのが立原道造だ。ソネット形式を得意とした詩人だが、天才的な建築家でもある。東大工学部(前出・堀越二郎と同じだ)在籍中に、先輩の辰野金吾に由来する辰野賞を3年連続で受賞し、1学年下の丹下健三にも影響を与えた。
そんな文武両道ならぬ、文理両道ぶりは、堀の師にあたる芥川龍之介が理想とした境地でもあった。が、天は二物を与えずというか、そういう人間をこの世に長くいさせず、自らの傍に呼びたがるものだ。長身痩躯で、いかにも結核に好かれそうだった立原は、1939(昭和14)年、24歳で帰らぬ人に。その1年半前に肋膜炎を発症したあと、友人への手紙にこんな予感を明かしていた。
「僕は やがて 自分の晩年をロマンのなかに悲しく描きはじめてしまう。浦和に行って沼のほとりに、ちいさい部屋をつくる夢、長崎に行って 古びて荒れた異人館にくらす夢、みんな二十五六歳を晩年に考えている かなしいかげりのなかで花ひらくのだ」
数え年でいえば、予感はずばり当たったわけだが、無茶をしなければもう少し長く生きられたかもしれない。亡くなる前年、彼は建築事務所を休職して、武者修行と称し、東北や九州に無謀ともいえる旅をした。逆に「晩年」だからこそ限られた時間をより充実させたかったとも考えられるが、この旅は喀血で締めくくられる。
そういえば、1924年に40歳で亡くなったフランツ・カフカも無茶を好んだ。質素な食事と短い睡眠、寒い部屋での執筆が祟ったことから、死因となった咽頭結核を「自ら招き寄せた病」と呼んだという。
ちなみに、立原の死から4年後には、新美南吉が29歳で他界。カフカ同様、最期は咽頭結核だった。じつはこの年、米国でストレプトマイシンが開発され、結核における化学療法の歴史が幕を開ける。もちろん、戦時下でもあった東洋の島国にいる童話作家の救命には間に合うよしもなかった。
が、戦後には日本でも治療法が広まり、作家や詩人が夭折することは激減していく。結核と文学の「蜜月」も終焉へと向かうのである。
文:宝泉薫(作家・芸能評論家)
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