学校は“何でも請負業”か? 家庭・学校・地域から失われていく「自立性」と「教育力」【西岡正樹】
文科省主導の「教育改革」が、つねに失敗する最大の理由
■文科省主導の「教育改革」が、つねに失敗する最大の理由
この家出事案にも、「本屋さんでの万引き事案」とは異なる「家庭、学校、警察(地域)の関係性のなさ、それぞれの自立性のなさ」を感じて仕方ありません。
家庭は、どうして学校へ子どもがいなくなった事をすぐに伝え、協力をお願いしなかったのだろうか。また、学校は、警察や家庭に対して自分たちの考えを伝え、捜索の中心になっている警察に指示を仰がなかったのだろうか。そして、警察は、学校に対して捜索にどのように協力してほしいのか、その具体的な指示をどうして出さなかったのだろうか。そして、その結果をきちんとなぜ学校に報告しなかったのだろうか。
この一連の流れや動きを見ていても、3者の明確な立場や方針が見えてきません。3者それぞれの意思が明確に表われ、伝わっていないので、なんとなく動いているようにしか感じられないのです。「子どもに関わることだからとりあえず学校で何とかしてもらえばいいんじゃないか。学校がなんとかするだろう・・・」という依存した考えが、警察から学校への要望にも表れているように思います。
今、文科省は「コミュニティースクール」を推進しています。地域、家庭、学校が繋がり、協力しながら子どもたちを育てていくことを求めていますが、その関係を成り立たせるためには、3者それぞれがきちんと自立することが求められます。しかし、現状を見ていると、自己解決力を失っている3者は、自立しているようには到底思えません。ならば、3者が連携することなど望むべくもありません。
前述した事例のように、家庭や地域から教育力が失われつつあります(すでに失われているかもしれない)。その二つに教育力がなくなってしまうと、当然「学校の内外にかかわらず、子どもに起きた様々な問題は、その矢面に立ち、解決していくのは学校だ」ということになってくるに違いありません。前述した2つの事案が、それを表しています。
学校が「何でも請負業」でいる限り、「教師の働き方改革」は非現実的です。また、文科省が推進する「コミュニティースクール」は、張りぼての学校になり、文科省が考えているような機能を果たすことはできないのではないでしょうか。
日本の教育改革は、根本的な社会変化と意識変化が伴わなければ、良い結果には繋がらないように思えるのは、悲観的過ぎるでしょうか。今、全国の学校で起きている出来事を見聞きしていると、そういうところにまで来ているように、私は思います。
文:西岡正樹