東京一ハイカラな街だった築地
〜来年から豊洲に移転する市場の歴史は400年〜
発祥は約400年前
市場の取扱規模は世界最大級
築地に魚河岸(東京都中央卸売市場築地市場)が開設されたのは1935年(昭和10)。以来80年間、首都東京をはじめ、関東近県の食文化を支え、現在では世界最大級の取扱規模を誇る、日本を代表する魚河岸に発展した。
この巨大市場の発祥は400年以上前の日本橋である。1590年 (天正18) 、江戸に入府した徳川家康は、当時、葦の茂る海辺の湿地帯だった江戸の街の開拓に着手する。その一環で、漁業の特権を与えて大坂の佃村から漁師を呼び、日本橋に河岸地を与える。やがて、漁師たちは幕府に献上した魚の残りを庶民に販売するようになった。これが魚河岸の始まりとされている。
一方、築地は「海を埋め立てて築いた土地」に由来する地名。1657年(明暦3)、明暦の大火後の復興計画により誕生した。火災で焼失した、浅草近く横山町の本願寺を再建するため、門徒たちが中心となり海を埋め立てた。 本願寺が築地に移ると門前町が形成され、その後は大名の中屋敷や下屋敷が建てられ、武家地として発展する。幕末になると、土佐藩邸に坂本龍馬、中津藩邸の中屋敷には福沢諭吉が起居していたことがある。福沢は邸内の長屋で蘭学塾を開いたことから、その跡には「慶應義塾発祥の地」(現中央区明石町)として、記念碑が建てられている。
日本初のホテル「築地ホテル館」
明治時代を迎えると外国人居留地が設けられ、広く異文化を取り入れる窓口となる。日本初のホテルである築地ホテル館をはじめ、キリスト教の教会やミッションスクール、レストランなどが次々と建設され、近代化の最前線といった街並みを形成していく。その様子は、東京新名所となった銀座と並ぶハイカラな趣があったという。
大正時代になると東京の街全体が大転換を強いられる。1923年(大正12)に起きた関東大震災だ。日本橋魚河岸が全焼すると、移転先として候補に挙がったのが、海軍ヶ原と呼ばれた築地海軍技術研究所用地。この一部に建てられたのが現在の築地市場である。
それから80年、現在では観光地としても人気が高い築地市場だが、施設の老朽化、場内の狭あい化などの理由から、2016年(平成28)に豊洲新市場へ移転する予定になっている。