“あなたを救う”教えなどない 「カルトか否か」見抜く方法とは【大竹稽】
「なぜカルトにハマるのか?」救済と信仰を問う【第3回】
安倍元首相銃撃事件から再び浮上した統一教会問題。宗教団体の政治との関わりや反社会的な活動の規制のあり方などをめぐってカルト規制法なるものも議論され始めた。一方で、そもそも人はなぜカルトにハマってしまうのか? この問いに向き合わねばならないだろう。「てらてつ(お寺で哲学する)」で有名な異色の哲学者・大竹稽氏が、「救済と信仰」を問いながら「カルトにハマるとは一体どういうことなのか?」について答えていく集中連載(全5回)の第3回。
◆そもそも信仰とはなにか?
前回「救済」を軸にしてカルトの考察をしました。「あなたを救います」と手を差し伸べてくる宗教者(あるいは団体)は、カルト的と言えます。もちろん問題とされているのは宗教としての救済であって、医療現場に代表されるような緊急を要する救済とは全くの別物です。
本来の宗教は、「あなたを救うのはあなた自身です」と突き放します。冷淡に感じられそうですが、誠実で真摯なメッセージです。そして救済の問題は、自ずと信仰の問題へと繋がります。
信仰とはどのようなものか。まずは、大前提から始めましょう。
そもそも、信仰と教団の運営は全くの別物です。教団への献金の額や貢献度、あるいは新しく獲得した信者の数が、あなたの信仰の度合いを証明する事など、ありえません。こんなメッセージにはご用心。宗教者は、うっかりこんな発言をしないように、重々戒めなければならないでしょうし、信徒としてはこのような発言の有無が、格好のリトマス試験紙になるでしょう。
本来の信仰は、団体に依るものではありません。便宜的に必要とされる時もあるでしょうが、信仰は全く個人的なものであるはずです。信じるものが、神でも仏でも天でもよろしいでしょう。しかし、団体は決して信仰の対象にはなりません。多くのカルト教団にはカリスマ的な教祖がいますが、教祖も信仰の対象にはなりません。
さらに言えば、教えを信じることもできません。奇妙な言い方になりますが、信仰の教えを説く者は、教えてはならないのです。
「洗脳」とは言い得て妙です。脳は教えられたがります。その機能を悪用するのが洗脳。つまり、「わらかない」を敵視し「わかる」にすがればこそ、わからないまま洗脳されてしまうのです。一方で、「わからない」と仲良くできれば洗脳されません。
ついでに言えば、教育でも「教える」だけでは子供も部下も育ちません。むしろ、教える人間の教えない構えが、子供や部下を成長させます。
さて、前の記事で、カミュの『ペスト』の一場面を紹介しました。オラン教会のパヌルー神父による説教はこのように始まりました。
「皆さん、あなたがたは災いのなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのであります」
この発言から、信仰がどのようなものか見えてくるでしょう。「災い(ペストの襲来)の中にいる」、これは疑いようのない事実。では「当然の(不信仰の)報い」はどうでしょう。これは事実ではありません。災禍と不信仰の報いには、なんの因果関係もありません。
パヌルーは、戦闘的ではあるものの、とても真面目で情熱的な神父です。人々を騙そうなどと、微塵も思わない。当然、パヌルー神父は「当然の報いである」ことを信じていたのです。そして、この説教によって跪いてしまった人々も、この言葉を信じられたのです。でもなぜ、彼らはこの言葉を信じることができたのでしょうか。
カミュ自身はこの答えを教えてくれていませんが、登場人物の発言や行動で、この答えを示唆しています。
教えではなく、彼らはパヌルー神父の行いを信じたのです。説教という行いを通してパヌルー神父の熱意と誠心が、彼らに伝わったのです。その姿に彼らは跪いたのであって、教えに平伏したのではありません。むしろ、教えは行いのための方便にすぎないのです。
パヌルー神父の誠実さは小説内で証明されています。二回目の説教で、彼は神父としての「正しい」教えを放棄します。彼の覚悟の言葉を引用しましょう。
「わたしたちは、踏みとどまらねばなりません!ただひざまずいて、一切を放棄せよ、などという言葉に耳を貸してはいけません。たとえ闇の中でも、手探りで前進をしなければなりません。わたしたちは、ただ善をなそうと努めるようじゃないですか。ただこのことをなすべきなのです」
この後、主人公であるリウーが結成した保健隊に参加します。その結果、彼は命を落とすのです。
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