多文化が共生するトルコ最大の都市「イスタンブール」 ちょっとディープで神秘的な街歩き【袴田玲】
袴田玲 ちょっとディープな「トルコ 街歩き」
トルコ最大都市イスタンブール中心部の繁華街で11月13日夕、爆発があり、6人が死亡、81人が負傷。トルコ政府は女1人によるテロ攻撃だとみて捜査していると述べた。じつに痛ましい事件があったが、イスタンブールはかつてこの地を支配した数々の帝国の文化的影響が反映され、歴史ある観光の街として栄えている。トルコに在住し、異文化理解と多文化共生について研究している袴田玲さんがちょっとディープなトルコの街歩きを紹介する。
〈私たちが知ってるトルコの、もう少し先〉
◆エユップ 〜 イスタンブール、祈りの街角
ここは、トルコ。前身であるオスマン帝国のかつての首都イスタンブールは、現在も多様な人々の住まう活気ある都市だ。半年ほど前から、私もここで生きている。
イスタンブールを歩いていると、街ゆく女性の服装が様々であることに気が付く。全身をすっぽりと黒のチャドルで覆う女性から、お腹を出して歩く女性まで。ここでは、そんな人たちが同じ場所で生活している。
もちろん、地域によって違いはある。例えば私が住むウスキュダルという地区では、ヒジャーブを被った女性をよく見かける。そこからひとたび船に乗り、10分程かけてボスフォラス海峡を渡ると、ベシクタシュという街に着く。香川真司の所属していたサッカーチーム、ベシクタシュJKが本拠地を置く街だ。船着場から歩くと数分でお洒落なカフェ通りに出るが、混雑するテラス席にも髪を覆う女性は殆ど見られない。トルコ国籍を持つ人の9割以上がイスラーム教徒といえども、そこから想像されるものとは少々異なるようだ。
では、イスタンブールで最も宗教的な人々が集まるのはどのような場所だろうか。本稿にて紹介するエユップ(Eyüp)は、その答えの一つだと言えるだろう。エユップ地区の中心であるエユップ・スルタン(Eyüp Sultan)には、トルコ人のみならず海外からも参詣に訪れる善男善女が絶えない。というのも、エユップはトルコ=イスラーム世界において、カアバ(マッカ)、預言者のモスク(マディーナ)、岩のドーム(イェルサレム)に次ぐ聖地とされてきた場所であるためだ。
エユップ・スルタンには様々な手段で向かうことができるが、今回は金角湾をフェリーで北上することにしよう。運賃は7.67トルコリラで(11/13現在約57.31円)、バスや地下鉄などの公共交通機関と比べて大差ない。旅番組で見たようなイスタンブルの景色を眺めつつ、船内で買った搾りたてのオレンジジュースを飲んでいるうちに、あっという間に着いてしまった。
船を降りて西へ向かうと、道は次第に門前町のような様子に変わっていく。ヒジャーブ、クルアーン、礼拝用の絨毯。軒を連ねるのは、こうした宗教的な品々を販売する店舗だ。イスタンブールでも、このように宗教関連の店舗がずらりと並ぶところはあまり見ない。
写真左手には預言者や教友の伝記が売られており、このうちの一つに「EYYÜP」と名のついたものがある。この人物こそがアブー・アイユーブ・アル=アンサーリー(Ebu Eyyub el-Ensari)という教友(預言者ムハンマドの弟子)で、廟(türbe)に埋葬されているその人である。エユップEyüpというのは、このアイユーブという名に由来する。
アイユーブとは、ヒジュラの2年前にムスリムとなった教友だ。預言者の時代の全ての戦いに参加し、その後674年のコンスタンティノープル(イスタンブール)包囲戦にて亡くなったと伝えられている。遺体は彼の生前の望み通り、テオドシウスの城壁付近に埋葬され、その墓はビザンツ帝国統治下のキリスト教徒によって雨乞いの対象とされていたという。その後、1453年のメフメト2世によるコンスタンティノープル攻略後、丸7日間の捜索の末にアイユーブの墓が「発見」されたという。
メフメト2世により、1458年には廟を中心にキュッリエ(külliye)が整備された。キュッリエというのは、廟、モスク、マドラサ(学校)、ハン(隊商宿)、ハンマーム(風呂)、イマーレット(キッチン)などから構成されるワクフ運営の複合施設だ。
さて、そうして人混みを抜けると、目前には巨大な建築物が立ちはだかる。参詣者たちは、皆ここを目指すようだ。
中へ進むと、廟にドゥアー(祈願)する人々の姿が現れる。バロック風の建築を美しく飾るのは、青色にコーラル・レッドが映えるイズニックタイルだ。廟の中も同様にタイルで彩られており、15世紀から18世紀までの多種多様なイズニックタイルを見ることができる。遠くから楽しむのも良いが、近くから一つ一つの模様に注目してみてほしい。多くの発見があるはずだ。
廟に隣接するモスク(エユップ・スルタン・ジャーミー)は、セリム3世によって1800年に再建されたものだ。ミナレットのみがそれ以前の姿を留めている。このモスクは、オスマン帝国において戴冠式と同等に重要な儀礼である刀の授与が行われていたことで知られている。
こうして廟とモスクを周り終え、周辺を散策する。周辺には歴史的に価値のある建物が数多く存在するものの、途端に人通りは疎となった。
注意深く歩いていくと、先述のキュッリエの施設のいくつかを見ることができる。そのうちの一つに、イマーレット(imaret)という貧しい人々に無料で食事を提供する施設がある。ここエユップでは、その伝統が珍しく現代まで受け継がれ、定期的に食事が振る舞われている。
さらに、近隣には古くから神に動物を捧げる屠殺場があり、そこでは金銭を支払うことで貧しい人々のために屠殺した肉を寄付することができるようだ。
他にも紹介したい場所は尽きないが、ここではエユップに来る人々に倣い、「ピエール・ロティ」という名のカフェへ向かおう[1]。丘の上に位置するこのカフェは、金角湾の景色を一望できることで有名だ。注目したいのは、カフェから見下ろす丘が丸々すべて墓地であるという点だ。偉大なアイユーブが眠るということで、同じ場所に埋葬されたいと願う者が多かったと聞く。墓の上部は花壇のようになっているが、著名人のものを除いて殆ど手入れされていない。
斜面を埋め尽くす墓を見下ろしつつ、ケーブルカーでピエール・ロティにたどり着く。太陽の光を受けてキラキラと輝く金角湾、それを一望できると話題のカフェ、隣には斜面を埋め尽くす墓。一般的な日本人の感覚では奇妙な組み合わせに思われるかもしれないが、トルコ人はあまり気にしないらしかった。
そんなものかと思いながらチャイを啜る。そうしてひとたび金角湾に目を向けると、墓のことなどすっかり頭から消えてしまったのだった。
文:袴田玲
注)
[1] 19世紀末に活躍したフランス人の作家(1850~1923)は、世界各地を回ったが、なかでもイスタンブールをこよなく愛した。彼はカフェに通って、すばらしい景色を見ながら小説を書いていたため、この店は「ピエール・ロティのカフェ」と呼ばれるようになった。この時に書いたイスタンブルを舞台にした処女作『アジヤデ』は日本語にも訳されている(新書館2000年)。
<執筆者プロフィール>
袴田玲(はかまた・れい)