オスマン帝国から認められた英国人ムスリム:ウィリアム・ヘンリー・クイリアム【山本直輝】
イスラーム世界が歴史を動かす【山本直輝】
■オスマン帝国から「英国のイスラーム最高権威」の称号をもらう
そうしたクイリアムの活動を知ったオスマン帝国のアブドゥルハミド二世は1891年に彼とその息子をイスタンブールに招待し、クイリアムに「英国のシャイフルイスラム」の称号を授ける。シャイフルイスラムとはオスマン帝国においてイスラーム法学の最高権威が名乗る称号である。ムスリム社会の政治のトップがスルタンだとすれば、学識のトップがシャイフルイスラムなので、事実上英国ムスリム社会の代表として任命されたに等しい。
この称号の授与は英国のムスリム社会に影響力を誇示したいオスマン帝国の政治的思惑も背後にあったのかもしれない。アブドゥルハミド二世はクイリアムを重用し、1894年にはナイジェリアのラゴスのモスクの開館式にオスマン帝国カリフの代わりに出席させたほどである。また1904年にはアブドゥルハミド二世の要請によりバルカン半島に赴き、現地のキリスト教徒の反乱についての調査を行っている。
しかし1908年、クイリアムはオスマン帝国に対する親和的な態度などからマスコミの批判を受け、イギリスを離れ息子ロバートと共にイスタンブールに渡る。その後の活動は不明な点が多いのだが、アブドゥルハミド二世の退位後には再びイギリスに戻り、亡くなったフランス人改宗ムスリムの友人アンリ・ハールーン・ムスタファー・レオンの名前をペンネームとして使いながら執筆活動をつづけた。クイリアムは1932年4月28日にロンドンで亡くなり、ブルックウッド墓地に埋葬された。
アブドゥッラー・クイリアムは英国史において、リヴァプールを中心に英国初の組織的なムスリム・コミュニティを築いただけではなく、オスマン帝国のスルタンからも認められるなど国内外において初めて「英国人改宗ムスリム知識人」の存在を広く知らしめた人物と言えるだろう。
文:山本直輝
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