「夫婦別姓を唱えているから統一教会だ」と非難する人たちの愚かさと危険性【仲正昌樹】
「公共的理性」を欠いた人たちの民主主義
安倍元総理暗殺から浮上した統一教会問題。この大騒動はいまだ収まる気配はなく、岸田内閣に対する支持率低迷の原因のひとつになっている。『人はなぜ「自由」から逃走するのか:エーリヒ・フロムとともに考える』の著者・仲正昌樹氏は、自身がかつて統一教会の信者だった経験を踏まえて、世に蔓延る「統一教会に対する非難報道とその思考」について鋭く批判をしてきた。統一教会叩きに熱狂している人たちの愚かさとは何か。この問題を通して民主主義社会の落とし穴と危険性を指摘する。
■統一教会に「有利なことを」を言う者をシンパ認定にする人たち
ここ数か月、統一教会と自民党の関係をめぐる報道が増えたが、これらの報道やそれに対するネットの反応の大半はかなりおかしな前提に立っている。統一教会が言ったのと「同じこと」あるいは統一教会に「有利なことを」を言う者は、統一教会の信者か少なくともシンパの証拠であり、その意見の中身を吟味するまでもなく、そういうことを口にしたこと自体をもって非難されるべき、という前提だ。そういう態度を取る人は、“統一教会”は“善良な日本国民にとって共通の敵”なので、“統一教会に有利なこと”を言うことは人として許されないと思っているのだろうが、本気でそう信じ切っているとしたら、とんでもなく危険な発想である。
例えば、統一教会の起こした霊感商法や高額献金問題の個別のケースに関して、統一教会側が正しいという意見を述べる人に対して、そう思うというのなら、分からないでもない。無論、その場合も、双方の言い分をよく聞き、客観的な証拠がいずれの側にあるのかを吟味したうえで、不十分な証拠によって統一教会を擁護している人を非難する場合である。それであれば、不適切な言葉で非難しているにすぎないとも言える。
しかし、ネットで“反統一”のツイートをしている人の大半はそうではない。統一教会にひどい目に遭ったと証言する、元信者、二世の証言はほぼ無条件に“信じる”。それに対する教会側の反論は最初から聞こうとせず、見苦しい言い訳だと切り捨てる。彼らは、統一教会の信者であった、という恥ずかしい過去をわざわざ告白してまで、嘘を付く理由などない、だから元信者や二世の告発は信用できる、と断言する。
こんなのは本来論拠にならないはずだが、こうした言い分にさえ一貫性がない。同じ元信者である私が、実名と現在の肩書を明らかにしたうえで、いや確かにかなり問題がある教団で、信者から見ても犯罪ではないかと思えるようなことをやることもあったが、自民党を影で支配するディープ・ステイトのような実力などあるはずがないし、信者を思い通りに操れるテクニックなどあるはずがない、とメディアで証言すると、あいつはまだ洗脳が解けていない、いや、実は偽装脱会信者で、今の地位も統一教会によって与えられたものだ、と何の根拠もなく断言する。それより多少“ましな”のに、あいつは教会内で特別待遇だったので、実情を知らない、というのがあるが、これとても、私がどういう“特別待遇”を受けたのか、知っているはずもなく、根拠皆無である。
結局、その人の外見・声色や、どっちの味方かという直観的な判断で、“真偽”を決めているのである。一般的な社会問題に関する単なるメディア上の“論争”であれば、そういう主観的な断定で、世論が左右されるのは、さほど害がないかもしれない――発言者の中には、非常につらい目に遭う人はいるだろうが。しかし、ある団体のメンバーが具体的な犯罪に手を染めたとか、団体全体として反社会的な行動に関与しているか、といった、いわば、司法の判断に似た、社会的審判を下そうという時に、そういう主観的な態度を押し通そうとする人たちの声が大きくなり、メディアがそれに合わせて報道するのは極めて危険だ。
実際、ワイドショーでは、被害者である元信者、二世信者の言い分については詳しく伝えるが、それに対する教団側の具体的な反論はとりあげないし、事実検証はほぼやっていない。教団側の反論はほぼ予想がついて面白くないし、警察の捜査が行われていない事案で、事実検証できるだけのスタッフもいないのが理由だろうが、一方的な報道によって、教団を解散に追い込むキャンペーンを展開するのはまずい、と思わないのだろうか。
法学では、その人の基本的な人権を制限するなど、重大な不利益処分を行う時には、必ず予め定められた手順に従って、その妥当性を吟味することを、適正手続き(due process)という。犯罪を行ったことが見え見えだったとしても、省いてはいけない。メディアには、デュー・プロセスは不要だという考えもあるかもしれないが、政治と司法を動かして、教団を解散に追い込むキャンペーンをする以上、デュー・プロセスに準じた手順を踏む必要があると思わないのだろうか。
デュー・プロセスという感覚がない人には、「公共的理性 public reason」の重要性も理解できないだろう。前者は、後者の基礎になっているからだ。「公共的理性」は、格差原理で有名な政治哲学者ジョン・ロールズ(一九二一―二〇〇二)の後期思想のキーワードだ。
後期のロールズは、様々な宗教的、民族的、世界観的背景を持った人々が、自由、平等、公正、自律、連帯、厚生…等の、憲法の基礎になるような基本的な正義の理念について、普遍的合意に達することは可能か、という問題と取り組んだ。そこで、様々な世界観を持った人たちの間で成立する「重なり合う合意 overlapping consensus」と、それに基づく公共の場での議論で用いられる「公共的理性」に着目した。
「重なり合う合意」というのは、その社会で長年にわたって共存し、立憲的体制を共有するようになった集団間で事実上成立している合意である。例えば、「意見表明の自由」や「人身の自由」であれば、特殊な教義を持ったキリスト教の宗派であれ、イスラム信者や仏教徒であれ、無神論者やマルクス主義者であれ、それが憲法の中核的理念であり、(自分たちも)尊重しなければならないことは認めるだろう。そうした合意が安定化し、その社会で生きるあらゆる集団の共通了解になっていれば、それは「重なり合う合意」である。
ただ、包括的教説(comprehensive doctrine)を有するそれぞれの集団は、どうして「意見表明の自由」や「人身の自由」が重要なのかについては、それぞれの教義に基づく異なった論拠を持っているだろう。キリスト教は聖書を、イスラム教はコーランを典拠にするだろうし、マルクス主義者はマルクスやエンゲルスのテクストを参照するだろう。内部向けにはそれでいいが、外の人には伝わらないし、受け入れてもらえない。
そこで、外部との議論で必要になるのが、集団内部の言説を、その社会を構成する他のメンバーにも理解可能なものに変換する「公共的理性」、あるいは、「公共的理性」が論拠として用いる「公共的理由 public reason」が必要になる。「公共的理由」とは、同じ立憲体制の下で生きるメンバーであれば、当面の問題を解決するための基本的な原理として受け入れないとしても、無視することはできない「理由」、少なくとも、どうしてそれをここで適用するのが不適切であるか反論せざるを得ない「理由」である。
例えば、妊娠中絶が違憲かどうかという論争であれば、合憲であると主張する側が、妊娠した女性の〈right of privacy〉――日本語の「プライバシー権」よりも広い概念である――を論拠として持ち出せば、反対している側も無視できない。〈right of privacy〉とはどういうものか再定義したうえで、この権利を、中絶をめぐる道徳的・政治的・法的論争の文脈で適用することの是非をめぐる議論に応じざるを得ない。〈right of privacy〉が、アメリカの憲法それ自体によって直接保証されているかどうかについては議論の余地があるが、そんな権利など必要ない、と言う人はほとんどいないだろう。
各人がそれぞれ身に着けた「公共的理性」を駆使して、「公共的理由」に基づいて議論するのであれば、その人の思想的背景や出自は関係ないはずである。二〇一二年にアメリカの大統領選で、共和党の大統領候補のロムニー氏はモルモン教徒であり、布教活動を行っていたことも知られているが、大統領選の最中そのことが特に話題として取り上げられることはなかった。彼の掲げる政策が、共和党の政策として普通に通用するものであり、別にモルモン教の教義を参照しないと理解できないようなものではなかったからである。
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