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戦法から見える意外な事実。信長は命知らずではなかった

覇王・織田信長の死生観 第1回

天下統一を目前に控えた織田信長は、
本能寺の変で突然の死を遂げた。
最期まで自ら槍を取り戦った信長の人生は
命知らずの破天荒なものだったのか?
信長は死をどのように捉えていたのか?
そして、ついに見つからなかった死体の行方は?
未だ謎多き信長の人生と死に迫る! 

 

 

 織田弾正忠家の家督を継いでから本能寺で倒れるまでの30年間、信長は戦争に明け暮れた。その生涯は、イコール戦争だったといってよい。
 では信長の戦法には、どのような特色があったのだろうか。目立った特色としてあげねばならないのは、次の2点に集約されよう。

一、籠城作戦はとらず、必ず出陣して野戦に持ち込んだ。

二、常に敵の兵力を上回る兵力をもって戦うことを心がけた。

 一は、あまり論議の対象になっていないが、信長の戦争の大きな特色といえる。多くの戦いをやっていながら、信長には籠城戦の経験が一度もないのである。父信秀からの訓えだったのではなかろうか。
 二は意外かもしれない。信長の戦いといえば、誰もが寡兵をもって大軍を破った桶狭間の戦いを連想するだろうから。しかし、この戦いは例外と考えたほうがよい。その後の信長は、敵方以上の兵を揃えてから戦いに臨む、という姿勢で通しているのである。
 ただし信長は、どんな場面に遭遇しても、決して命を惜しんで守勢に回ることはなかったということを強調しておきたい。その時の情勢判断によって、少ない兵でも打って出ることもあったし、軍勢の先頭に立つこともあった。そうした戦いの代表が桶狭間の戦いである。ほかに、稲生の戦い、天正4年の本願寺との戦いの時も、そうした姿が見られる。これらの戦いにこそ、かえって信長らしさが発揮されたと思われるのだが、統計的にいうとあくまでも例外なのである。
 信長は、おのれの力と相手の力とをきちんと把握してから戦いに臨んだ。負ける確率の少ない、堅実な戦いを行ったのである。しかし、時には一か八かの戦いを強いられる時もあった。たとえ条件が整わなくても、彼は戦いを避けることはなかった。そうした前向きの姿勢によって信長は、統一事業を進めることができたといえよう。

覇王・織田信長の死生観②に続く>

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谷口 克広

たにぐち かつひろ

1943年、北海道生まれ。横浜国立大学卒業。戦国史研究家。織田信長研究の第一人者。主な著書に「織田信長家臣人名辞典」(吉川弘文館)、「信長と消えた家臣たちー失脚・粛清・謀反」(中公新書)など。


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