学級崩壊する予兆とは? 迷惑行為を繰り返す子どもたちの共通点とは?
教育における「身体性と距離感」の喪失について
〝学級崩壊〟する教室で見られる初期現象とは何か?〝迷惑行為〟を繰り返してしまう子どもたちに共通する特徴とはいったい何か? 小学校教員歴40年の西岡正樹氏が教育現場の真っ只中で目にしてきた事実に耳を傾けたい。公立の学校教育に対して、「学校の当たり前をやめよう」などと軽々に物申す人々が、いかに特殊な環境で教育方針を語っているか。そこではいかに身体感覚のない机上の空論が繰り広げられているか。子どもたちを観察できなくなった私たち大人自身は自己反省を迫られるだろう。実際の教育現場の〝現実〟に向き合うことからしか何も始まらないということを再認識するためにも・・・
■学級崩壊する予兆とは?
突然、何の前ぶれもなく、一人の男の子が席を立ち、歩きだした。授業であることなど意識にないようだ。席の後ろに並ぶ自分のロッカーへ行くと、ランドセルの中に手を入れ、何かを探っている。すぐさま、男の子は紐を取り出し、その場で遊び始めた。その、何の戸惑いもない様子を見ていると、この行為が日常的であることがうかがえる。周りにいる子どもたちはといえば、その行動に関心を示す訳でもなく、まるでそのことが無いかのように、自分のやるべきことに向かっている。
このような光景は、学級崩壊するであろう、多くの教室で見られる初期現象だ。このような行動をとる子どもを放置しているとどうなっていくか。容易に想像がつくのではないだろうか。
放置していると、まず、起こりえることは、授業に飽きた子どもや授業についていけない子どもが、同じような行動をとり始める。あの子が許されるなら自分も許されると思うのは当然のことだ。しばらくすると追随する子どもの数が加速度的に増えて、当然のことながら担任一人の手には負えなくなる。
そしてようやく、この状況を打開するために他の教員が介入し、適切な指導や行動をとり始めるのだが、この事態に至ってからでは「状況の打開」は容易でない。仲間が増えると、自分勝手な行動はより大胆になり、行動範囲がより広くなる。そして、遂には子どもたちの自分勝手な行動は、教室内には収まらなくなってしまう。
人数が多くなると、当然教師の一人ひとりへの関わりが弱くなってしまうので、子どもたちにとっては「赤信号、みんなで渡れば怖くない」状態だ。子どもたちの行動がエスカレートし、教師のコントロールが効かなくなると、教室の中はだいたい3つのグループに分かれ始める。「まじめに取り組む少数の子どもたち」、「状況によって易きに流れる子どもたち」、そして「やりたい放題に行動する子どもたち」。
「やりたい放題の子どもたち」が増えるにつれて、教室の机は乱れ、教室の床にはものが散乱し、掃除も行き届かなくなってしまう。教室には常に担任と複数の教員と補助員さんが子どもたちと関わらなければ、教室を維持することはできない。
■迷惑行為を繰り返す子どもたちのある共通点とは
新学期になり、教室が開かれた当初、前記のような自分勝手な行動をとる子はほとんどいない。どの子も胸躍らせ、わくわく感いっぱいで学校にやってくる。それまでに迷惑行為を行ってきた子どもであっても、新学期はあらたまった気持ちになり、多くの子どもたちは、同じような気持ちで席に座っているはずなのだ。少なくとも、私が関わってきた子どもたちはそうだった。
自分の席に座らず、自分勝手な行動をしている子どもたちは、どうして迷惑行為をするまでに至ってしまうのか。それなりの理由を持っているに違いない。しかし、私が関わった迷惑行為を繰り返す子どもたちは、それぞれ理由を持ってはいるが、そこにある共通点があることにも気が付いた。それは、どの子もとても「甘えん坊」だということだ。そして、どの子も落ち着いて二人だけで向かい合うと、身体的な距離が一気に近くなることも共通している点である。
ある養護教諭がこんな話をしてくれた。
「あのKさんは、膝の上に乗ってきたり、洋服のどこかを触ってきたりしながら話をするんです。突然、甘えん坊になってしまうのでびっくりしました」
「あの」という言葉で分かるように、Kは迷惑行為をすることが多い子なのだが、子どもは安定、安心した状態になると「素」を出し始める。その「素」の状態をみると、その子が発育過程において十分な愛情を注がれたのか注がれなかったのか、また、欲求が満たされないまま今に至っているのかどうかが見て取れるのだ。迷惑行為の多い子どもは愛情不足からか、身体的接触を多く求める傾向にある。
私が担任した、迷惑行為の多いC(男子)は、私のそばにやってきたかと思うと、ぴったりと体をくっつけて話をすることが多くなった。むしろ、体をぴったりとくっつけなければ安心して話ができないようなのだ。しかし、不思議なことに、このように自分の体を私の体にぴったりとくっつけて話をするようになってから、私の言葉がCに入っていくようになった。Cは「ここにいると安心する」「この人といると安心する」と思ってくれるようになったのだろうか。
安心感が得られていない頃のCには「NO」が入らなかった。「NO」と言われた瞬間に反発心が爆発するのだ。しかし、Cはこのような身体的な関わりを繰り返すうちに、ある時、「NO」が受け入れられるようになった。そして、このような関係になってからCの迷惑行為は次第に少なくなっていった。
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