「3本の矢」の逸話は創作だった!?
毛利元就の遺言状 第4回
謀略を駆使して、弱小領主から一代で中国地方を制覇した毛利元就。その死に際に、3人の息子に語ったとされる「3本の矢」の逸話は後世の創作とされるが、その遺訓には明治維新まで続く毛利家を守った「知恵」が秘められていた――。
元就(もとなり)が隆元(たかもと)、元春(もとはる)、隆景(たかかげ)の3兄弟を臨終間際の枕辺(まくらべ)に呼んで、「1本ずつ矢を取らせ、1本の矢は折れやすいが、3本束ねると折れない。だから3人が力を合わせよ」と教えた逸話はあまりにも有名だ。
だが、隆元はすでに他界しており、元春・隆景も成人になっていて、これは教訓状をもとにした作り話とされる。ところが『常山紀談』(じょうざんきだん、注)には、従来の逸話と違う記述があり、こちらは事実と見られる。
郡山城(こおりやまじょう)で元就が重態に陥った際、元春は尼子勝久(あまご かつひさ)を追って出雲に出陣して留守で、38歳の隆景が父に付き添っていた。この時に、側室が産んだ息子たちが枕辺(まくらべ)に呼ばれた。4男元清(もときよ)21歳から9男秀包(ひでかね)5歳まで6人の息子である。
元就は隆景を含め7人の息子たちに、1本ずつ矢を持たせ、束ねた矢は折れないことを諭し、兄弟みんなが心をひとつにして、仲よくするのだと遺言した。
これに隆景が答えて「争いは欲より起こるもの。欲をやめて義を守れば、兄弟の不和は起きませぬ」というと、元就は「みな隆景の言葉に従うのだ」といって悦び、この後、元就は息を引き取った。(続く)
注/備前岡山藩主池田氏に仕えた徂徠学派の儒学者・湯浅常山が簡潔な和文で記した説話集。江戸時代中期に成立した。
文/楠戸義昭(くすど よしあき)
1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。