東北が生んだ異才・石原莞爾ゆかりの地をめぐる
東北・東京・京都…いまなお残る帝国日本の面影
運動以外の成績は優秀な山形人
石原莞爾は、乃木希典同様に人によって大きく評価の分かれる人物である。一方には石原を関東軍の暴走のきっかけを与えた張本人とする見方があり、他方では透徹としたビジョンと行動力を持った思想家だとする評価がある。
いずれの評価に与するにせよ、帝国の歴史を振り返るうえで石原莞爾という軍人が極めて不可思議な魅力を放つ異才であることは間違いない。
明治22年(1889)1月18日に山形県・鶴岡に誕生した石原が、軍人としての道を進みだしたのは明治35年(1902)のことである。この年に仙台陸軍地方幼年学校に入校した石原は、運動以外の成績は優秀で、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校と進んだ。陸軍士官学校は、現在東京・市ヶ谷の防衛省の敷地のなかにあり、陸軍士官学校阯を示す石碑や演習用のトーチカなどを見ることができる。
士官学校を出た石原が入ったのが歩兵第六十五連隊、通称若松連隊だ。
第六十五連隊は、福島県・鶴ヶ城の城下北側、武家屋敷があった一帯に兵営、城址の三ノ丸東側と城外に練兵場をつくり、明治40年(1907)に創設された。石原は創設間もない連隊の教官として厳しい訓練を施した。
彼は自著『戦争史大観』の序説で「明治の末から大正の初めにかけての会津若松歩兵第六十五聯隊は、日本の軍隊中に於ても最も緊張した活気に満ちた聯隊であった。この聯隊は幹部を東北の各聯隊の嫌われ者を集めて新設されたのであったが、それが一致団結して訓練第一主義に徹底したのである。明治四十二年末、少尉任官とともに山形の歩兵第三十二聯隊から若松に転任した私は、私の一生中で最も愉快な年月を、大正四年の陸軍大学入学まで、この隊で過ごしたのである」と述懐している。
石原は若松の連隊から初めて陸軍大学校に進んだ人物でもあり、合格の際には、訓練ばかりで勉強する姿をあまり見たことがなかった周囲の人々を大いに不思議がらせたという。石原が銃剣術をはじめ日々猛訓練に励んだ兵営は、戦後、市立第二中学校や市営住宅などに転用された。現在、遺構のほとんどは失われたが、連隊設置を記念して植樹が始まった鶴ヶ城公園の桜は健在である。
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