英国人ムスリムの軌跡から分かる「日本人ムスリムの起源」とは
イスラーム世界が歴史を動かす【山本直輝】
■最初の日本人改宗ムスリム
オスマン帝国カリフのアブドゥルハミド二世によって「ブリテン諸島のイスラム最高権威」に任命されたアブドゥッラー・クイリアムの活動は、国内外においてヨーロッパの改宗ムスリムの存在を知らしめた。しかし、英国人改宗ムスリムの軌跡を追うことは、ヨーロッパのイスラーム史だけではなく、実は日本のイスラーム史、特に日本人改宗ムスリムの歴史を知る手がかりにもなるかもしれないのだ。
日本とイスラーム世界の交流の歴史は新しく、幕末の開国以降から始まる。鎖国が解かれ外の世界と再び交流を始めた日本の中で、ムスリムと接触しイスラームに改宗した日本人も僅かながらに確認されるようになる。しかし基本的に日本人改宗ムスリムについての歴史的資料は非常に少なく、彼らの軌跡を特定することは困難である。
明治以降の記録に残されている日本人改宗ムスリムの第一号はオスマン帝国イスタンブールに渡りトルコと日本の交易の道を切り開いたとされている実業家・茶道家元の山田寅次郎(1866年ー1957年)であると従来信じられてきたが、近年の研究によれば、これは歴史資料の混乱から生じた誤解に過ぎないという指摘がある。少なくとも、オスマン帝国側の資料を確認する限り山田寅次郎よりも先にイスタンブールでムスリムとなった日本人がいたのは確実であるようだ。彼の名を野田正太郎という。
野田は1868年、青森県の士族の家に生まれる。彼は慶応義塾で学んだあと、『時事新報』の新聞記者となった。そして入社間もない1890年に「エルトゥールル号事件」に遭遇する。
エルトゥールル号事件とは、オスマン帝国のアブドゥルハミド二世により派遣された軍艦エルトゥールル号 が、現在の和歌山県串本町沖にある紀伊大島近くで遭難し、500名以上の犠牲者を出した事件である。時事新報は、紙上でエルトゥールル号乗組員の犠牲者の遺族のための義援金を集め、さらに事件の生存者69名をオスマン帝国まで送還するために派遣された日本の軍艦に野田を義援金を持たせて同乗させた。こうして野田は日本のマスコミ史上初のイスラーム世界への特派員となった。
■イスタンブール滞在、そしてクイリアムとの出会い
1891年に日本の軍艦はイスタンブールに到着し、義援金を渡した後は野田は日本に帰る予定であったと思われるが、アブドゥルハミド二世はオスマン帝国の軍人に日本語教育を行うために日本人を留め置くことを希望し、野田が日本語教師としてイスタンブールに残ることとなった。
結果的に野田は、この後二年間イスタンブールに滞在することとなる。野田はオスマン帝国士官に日本語教育を施しながら、時事新報の記者としてオスマン帝国社会に関して記事を書き続けた。そして、このイスタンブール滞在中にオスマン帝国イスタンブールにやってきた英国人改宗ムスリムのアブドゥッラー・クイリアムと出会っているようなのだ。
前回の記事で紹介した通り、クイリアムはアブドゥルハミド二世から「ブリテン諸島のイスラム最高権威』に任命されるほど目にかけられていた人物であり、たびたびイスタンブールを訪問していた。そしてイスタンブール滞在中のクイリアムに同行者としてオスマン帝国から派遣されていたイブラヒム・ハック・ベイの記録によれば、クイリアムが軍人学校を訪問した際に日本語教師として働いている日本人と出会ったという。この日本人はその後クイクイリアムとイスラームについて話し合ったという。クイリアムは彼にイスラームに関する冊子をあげ、この日本人がイスラームに改宗することを願っていたそうだ。
その後、野田正太郎は1891年6月にアブドゥルハリームというムスリム名を得てイスラームに改宗する。
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