卑弥呼は倭の女王か? 邪馬台国の女王か?
謎多き女王・卑弥呼の正体に迫る 第1回
■争乱の末に「共立」された女王・卑弥呼
弥生時代の日本列島は動乱の時代であった。本格的な農耕の開始は、コメという富を生み出し、それを持つ者と持たない者との間に格差を生み出した。また、青銅や鉄といった金属器の伝来は、鉄剣や銅剣をはじめとするすぐれた武器の生産をもたらし、戦闘に大きな影響を与えた。
1世紀の列島社会を記した『漢書』地理志には100あまりの「クニ」があったと記されている。ついで、2世紀のことを記した『後漢書』東夷伝(とういでん)には「倭国大乱(わこくたいらん)」とあり、倭とよばれていた日本列島のクニが互いに争っていたことが書かれている。
そして、3世紀のことを記したのが『魏志(ぎし)』倭人伝(わじんでん)である。それによると、中国に朝貢(ちょうこう)してくるクニが30あるとしている。これらのクニは、男王によって統治されており、こうした状況が70~80年続いたようであるが、その後、クニ同士の争いが起こり、何年にもわたって続いた。そこで1人の女性を立てて王にしたという。これが卑弥呼(ひみこ)である。
卑弥呼のことを含めて、邪馬台国(やまたいこく)に関することを直接に語っている史料は、『魏志』倭人伝のみである。したがって、その詳細については、不明なことや説のわかれる点が多くみられる。そこが、邪馬台国の魅力でもある。
こうして卑弥呼は女王となったわけであり、中国へ朝貢していた30ほどのクニのひとつである邪馬台国に住んでいた。ここからひとつの疑問が生まれる。それは、卑弥呼は女王になったのであるが、どこの女王なのかという点である。具体的にいうと、邪馬台国の女王なのか、それとも30ほどのクニからなる邪馬台国連合の女王、つまり、倭の女王なのかということである。
この点については、まず、それぞれのクニには王がいたようである。たとえば、伊都国(いとこく)について『魏志』倭人伝は、代々、王がいると記しており、さらに、女王国に従っていると述べている。30ほどのクニのすべての王の存在が明記されているわけではないが、おそらく各々のクニには男王がいて、それらをたばねる存在の王として、女王・卑弥呼が邪馬台国に住んでいたのであろう。
そして、卑弥呼の立場は、「共立」されたということからも想像ができるように、30のクニを力で統治する専制君主といったものではなく、精神的な統治の象徴であったと思われる。言葉をかえると実際の統治にあたるのではなく宗教的な王ということができるであろう。
《謎多き女王・卑弥呼の正体に迫る 第2回へつづく》