なぜ信者は教祖の復活を祈り続けるのか?「今からでも間に合う!幸福の科学入門」(後編)【もっちりーま】
宗教二世問題から考えるべきこととは(後編)
前編では幸福の科学での思い出を振り返りながら、信者が異常な教義に熱狂しているわけではないということを述べました。
しかし、実際に教祖が亡くなってからもそれを認めず、復活を祈り続けている状況は異様です。後編では、なぜ復活を祈ってしまうのか、復活を祈るとはどういうことなのか、幸福の科学の歴史を振り返りながら、その文脈を探っていきたいと思います。
■六畳一間からあっという間に大富豪に
前回、カリスマ教祖がいなくなった後の教団は縮小するしかないと述べましたが、そうはいっても、今いる信者の方々が「復活しないなんて、やっぱ大川隆法は神じゃなかったか」とか「新しい後継者にはついていけないや」と信仰を捨てる例は少ないと予想します。これまでも予言を外したり、教義が変更されたり、体制が変わることはありましたが、信者の多数が脱会したり、分派を作るという動きはほとんどなかったからです。
これまでの幸福の科学で、大きなターニングポイントといえる転換点は二つあります。
■1. 霊言の勉強会から自己に信仰を集め、官僚制を完成させた 「エル・カンターレ宣言」
一つ目のターニングポイントは、東京ドームで行われた「エル・カンターレ宣言」です。
幸福の科学は、隆法氏がテープにとった霊言を書き起こし、隆法氏の父、善川三朗氏の名前で出版しはじめたところから始まりました。元々はスピリチュアルや自己啓発に近い小さな勉強会で、1986年に「幸福の科学」を開いた時には六畳一間の事務所から出発しました。「宗教として始まり信者に本を売る」のではなく、「本の読者が信者になっていった」という、特殊な成り立ちを持っています。初期は著書を10冊読んでレポートを送り、それが認められると会員(信者)になることができました。
1987年3月に開かれた第1回講演会『幸福の原理』では基本教義である「正しき心の探究」と「幸福の原理=四正道(愛・知・反省・発展を実践すること)」が説かれ、5月に開かれた第2回講演会『愛の原理』では「幸福の科学の運動は、第一段階の宗教改革、第二段階の諸学の統合による日本の革命を経て、第三段階としてユートピア運動のうねりを広げるものだ」と述べられています。基本経典である『太陽の法』、『黄金の法』、『永遠の法』もこの年に出版されました。幸福の科学は急速に規模を拡大させ、設立からわずか4年後である1990年には、会員は公称20万人、賃料月額2,000万円の場所に本部を構えるまでになりました。
そして1991年に宗教法人格を取得し、隆法氏は東京ドームで「エル・カンターレ宣言」をしたのです。「エル・カンターレ宣言」とは、自分がエル・カンターレという名前の神であり、これまでの歴史上全ての宗教指導者を遣わした者だ、という宣言です。そしてその後霊言の出版は少なくなりました。
なぜわざわざそんな宣言をし、霊言の出版は減らされたのでしょうか。
あらゆる宗教を融合する神がいる、という教義や世界観自体は「幸福の科学」として設立された当時から固まっており、自己啓発的な講義や本の出版も行われていたのですが、元が日蓮やイエス・キリスト、孔子、ソクラテスなどの霊言の出版と勉強会から始まったので、信者たちはそれぞれ興味があるところから「良いとこ取り」をしている状態だったのではないでしょうか。そのため、信仰を一つに集約するためにも、急に大きくなってしまった教団を円滑に運営していくためにも、それまでに出版した霊言と並ぶ単なる「仏陀の生まれ変わり」ではなく、「エル・カンターレ」という本来人間の肉体に生まれるはずのない高次元存在であるという宣言を改めてする必要が出てきたのです。
そして「エル・カンターレ」宣言の3年後、1994年には「方便の時代は終わった」と言って、根本経典である『太陽の法』が大幅に改訂され、特にそれまで人間の魂が到達できる最高レベルの霊界である9次元にいる神(エル・ランティ)の生まれ変わりだと言われていたGLAの高橋信次氏が、実は妖怪や仙人、魔法使いなどがいる裏世界の指導者だったという内容に修正されました。
「方便の時代は終わった」という宣言は、これまでが方便の時代、つまり教義に嘘が混じっていたことを認めつつ、今後は「本当の真理」だけになるのだ、という理解を信者に与えました。そのため、その後も繰り返される改訂、特に2012年頃に元妻きょうこ氏の過去世が「文殊菩薩」や「女神アフロディーテ」から「裏切り者のユダ」になったことは、初期からの信者の方々にはある程度のインパクトを与えたと思います。
この「方便の時代の終わり」宣言時から既に、社会に対する姿勢や教団内の体制変更にしたがって、教義が変わるという動きを見ることができます。小さな勉強会から「エル・カンターレ宣言」をするまで、幸福の科学は事務所の移転や「お布施」の制度を作るのに、GLAや生長の家、創価学会など他宗教団体の教義や元信者、元職員のアドバイスから大きな影響を受けていました。「方便の時代の終わり」は単なる教義変更ではなく、別団体から来た人や今後の体制に意見がある人を体制の中心から外す体制変更と、そのための言説形成だったのです。
そして1994年の「方便の時代の終わり」と同時に、三法帰依(「仏」である大川隆法氏、それが説く「法」、そしてその法に仕える「僧」という三法に帰依する)体制もこの時、信仰をエル・カンターレ=大川隆法に集約していく、体制変更の中で整えられました。