学校の当たり前『通知表』を廃止して喜ぶのは短絡的すぎませんか【西岡正樹】
教育改革に振り回される「先生と子どもたち」の実情
日本全国で1年間に多くの教師が療養休暇に入っているのをご存知だろうか。教師たちはいま疲弊しまくっている。そんな学校現場にあなたの子どもが通っているのを想像してみてほしい。多くの子どもたちも不安やストレスを人知れず抱え込んでいるはずだ。その原因の最たるものは何なのか。子どもや教師たちを振り回し続ける「教育改革」なるものが学校現場を混乱させている、と指摘するのは西岡正樹氏(小学校教員歴45年)だ。子どもと教師が互いに信頼関係を持って学び合う余裕がますますなくなっているという。いま学校の教育改革で何が起こっているのか? あなたの子どもや教師たちを救うためには何が必要なのか?
■学校現場を無視した「教育改革」の右往左往
「教育改革」や「学校の当たり前をなくす」という言葉は、耳触りが良い。あたかも何か新しいことが起こるような響きもある。しかし、この耳触りの良さが、曲者なのだ。そもそも「教育改革」は、越えなければならない大きな課題があり、その課題を克服するために行われてきたはずだが、現場感覚としては、「その結果、どのような成果をあげてきたのだろうか」という疑問ばかりが残ってきた。
特に、昨今、声高に言われている「学校の当たり前をやめる」という「取り組み」もそうだが、「当たり前をやめた」先にあるものは何なのか、それが明確に見えないまま、事が進んでいっているように思えてならない。
私は45年間、公立小学校で子どもたちを見てきた。いや、5年間ほど旅に出ているので実質40年かな。その間に、社会は大きく変化してきた。したがって、その中で生活している子どもも、社会の変化と共に変わらないはずがない。
しかし、私が、この45年間という年月の中で実感していることは、子どもの大きな変化だけではなく、「ゆとり」や「個性尊重」そして「多様性」等などの言葉に振り回され、それに対応できないまま右往左往してきた学校現場の慌ただしさと、そんな慌ただしさの割には「教育改革」の結果が伴わなかった無力感である。
■悪戦苦闘している教育現場の声を聞け
1970年代、受験戦争に立ち向かう戦士を養成するかのような詰め込み式から、突然に、天から吹き降りてきた自由の嵐。そして、「生きる力」なる言葉が脚光を浴びた1990年代、「一人ひとりの個性を尊重しましょう、先生たちの裁量で『ゆとり』を持って学びに向かいましょう」などとスローガンを掲げておきながら、一転、「ゆとり教育」なるものが「世間の冷たい目」にさらされると、文科省は突然の手のひら返しだ。
2010年代には、基礎を大切にした学習の充実を前面に打ち出し、授業時間が増加するという大転換。そして、2020年代、「主体的・対話的な深い学び」という言葉が推奨され、「生きる力」が再び脚光を浴び始めた。
今まで、様々な教育改革が行われてきたが、学校現場は常に後追いを余儀なくされ、毎度終わりを迎える教育改革を振り返る余裕もなかった。そして今、またまた新しい教育観の元、現場教師は、さらなる授業改善を求められる有様なのだ。
それぞれの時代に行われた教育改革は、子どもたちの学びの質を高め、子どもたち一人ひとりの自立を促すためのものだったのではないのか。しかし、学校現場においては、それに対する検証など何もないまま、再び今「主体的・対話的な深い学び」を前面に掲げなければならなくなったのである。
ところが、現場にいる多くの教師は、その日一日を無事に過ごすことで精いっぱいの状況にある。日々、悪戦苦闘している教育現場にいる者として言わせてもらえれば、「教育改革?」「当たり前をやめる?」いえいえ「現場はそれどころではない」という一言に尽きる。