学校の当たり前『通知表』を廃止して喜ぶのは短絡的すぎませんか【西岡正樹】
教育改革に振り回される「先生と子どもたち」の実情
■教師と生徒は一体。「教育改革」が皆を疲弊させている
そもそも学校は、子どもたちが自立(律)するための力を養い、社会という大海原の中で、多くの人と関わりながらうまくやっていく術を身に付けるところだ。しかし、日本の教育はその根本を蔑ろにしているように思えてならない。
人は人と関わりながら自立する力を身に付け、人と関わりながら社会性を身に付けていく。私は人との関わりがないところに、教育は成立しないと思っている。人と人が尊重することによって人と人の関係性が生まれてくるし、その関係性を通して人は多くを学ぶ。教師と子ども、子どもと子ども、教師と教師、お互いを尊重しない空間では教育は成立しない。
今の学校に必要なのは、「改革」と呼ばれる目新しい実践ではなく、教育の根本に立ち返ることなのだ。
日本全国多くの県で、1年間に、多数の教師が療養休暇に入っているのをご存知だろうか。そのような過酷な状況にある学校に必要なのは、「改革」や「当たり前をやめる」などではない。むしろ、「当たり前」を取り戻すこと。それは、人を人として尊重する学校である。子どもを尊重し、教師を尊重し、お互いに尊重し合う「当たり前」が通用する学校を、取り戻すことである、と私は思う。
■「通知表を廃止」を喜び喧伝する学校は短絡的すぎないか
つい先日も、NHKのニュース番組の中で、「家庭への知らせ」(※通知表のこと)を廃止した茅ケ崎市立香川小学校のことが取り上げられていた。その説明を聞いたが、結局は「『教師の拘(こだわ)り』が『廃止』という『かたち』になったにすぎないんだろうな」という思いしか出てこなかった。
学校側は、廃止の理由をいろいろ挙げているが、それらの理由を聞いても、「廃止」が子どもたちの成長には欠かせないものだとは私には思えない。あまりに説得力に欠ける。それよりも、「家庭への知らせを廃止したい」という教師の「拘り」、その思いの強さだけがこちら側に伝わってきた。
ではその「拘り」とはなんなのか。
香川小学校の校長先生は、通知表をなくすきっかけは「教師の通知表への問題意識」だと新聞紙上で語っていた。
「多くの教員は、児童の努力や成長に着目したいと思って日々接している。でも、学期末に通知表を渡すと、児童は『よくできる』の数に一喜一憂して終わってしまう」と。
さらに、「児童の間にも、『よくできる』が多ければ自慢し、少なければ自分はダメだと卑下し、序列ができる雰囲気があった」と。
これらの理由だけで「通知表をやめる」という方向へ一気に舵を切ったというのであれば、あまりに短絡的すぎると思わざるを得ない。
通知表をもらって一喜一憂することは当たり前である。校長の話の中に「努力と成長に着目したい」とあるが、子ども自身のがんばりが「よくできる」に表れているのだから、それを見て喜ぶのは当然のことだし、むしろ喜ばしい風景だ。(喜びすぎるのはどうかと思うが)
また、「『よくできる』の数によって序列ができる雰囲気があった」とあるが、もしそのような雰囲気が出てくるのであれば、それは通知表が問題なのではなく、学級集団そのものに課題があるのではないだろうか。通知表の「よくできる」の数で、教室の中に序列ができるのは、教師が通知表の役割をきちんと伝えきれていないからということを認識した方が良いだろう。
人と人が尊重し合い、お互いの思いや考えを共有し合う関係が成立していれば、通知表による序列や「よくできる」の数が多い子どもが、「よくできる」の数が少ない子を挑発することもなくなるのではないだろうか。今、やるべきことは通知表をなくすことではなく、子どもの自立(律)や子どもたち同士の関係性を育てる実践に力を入れることである。