「関ヶ原の恨み」が明治維新へつながった
毛利元就の遺言状 最終回
吉川広家は毛利輝元が関ヶ原合戦の総大将になったことを徳川家康にひたすら詫び、自分の功績に代えて、輝元の助命と毛利氏の存続を嘆願した。ここに家康は輝元の安全を保障する一方、毛利8カ国(118万石)のうち6カ国を没収し、周防・長門2国(29万6370石)に閉じ込めた。この中で広家に3万石が与えられ、支藩の岩国藩ができる。
毛利は広家の才覚によって、滅亡を逃れ、先祖の祭祀を継続できた。広家が毛利家を救ったと諸藩は見た。しかし、毛利主従はそうは見ず、「広家は本家を売った裏切り者」とののしり、憎んだ。
広家は明治の世までも恨まれた。それは毛利主従が生活に困窮したからだ。朝鮮出兵の大幅出費に加え、関ヶ原の戦いのため、毛利氏は年貢の先納を農民に強いていた。ところが6カ国が没収され、先取りした16万石の返還を、旧毛利領に赴任した大名たちが請求してきた。だが毛利は返済できず、輝元は防長2国の返上まで考えるほどの一大事になる。
結局、借金は家臣に転嫁され、「一門・直臣(じきしん)の61%をリストラした。さらに毛利に留まった者の中には、武具、寝具まで売っても立ち行かず、離藩する者も続出した。
もし広家が余計なことをしなければ、関ヶ原に毛利は出撃し、一族の小早川秀秋の裏切りもなく、家康は敗れ、毛利の繁栄はなお続いていたと、多くの者は主張してはばからなかった。
どちらが正解か分からない。しかし、この貧しさがエネルギーとなり、徳川幕府への怨念となって、長州の明治維新が成就したことは間違いない。(了)
文/楠戸義昭(くすど よしあき)
1940年和歌山県生まれ。毎日新聞社学芸部編集委員を経て、歴史作家に。主な著書に『戦国武将名言録』(PHP文庫)、『戦国名将・知将・梟将の至言』(学研M文庫)、『女たちの戦国』(アスキー新書)など多数。